・・・ではその人間とはどんなものだと云うと、一口に説明する事は困難だが、苦労人と云う語の持っている一切の俗気を洗ってしまえば、正に菊池は立派な苦労人である。その証拠には自分の如く平生好んで悪辣な弁舌を弄する人間でも、菊池と或問題を論じ合うと、その・・・ 芥川竜之介 「兄貴のような心持」
・・・その証拠には自分の如く平生好んで悪辣な弁舌を弄する人間でも、菊池と或問題を論じ合うと、その議論に勝った時でさえ、どうもこっちの云い分に空疎な所があるような気がして、一向勝ち映えのある心もちになれない。ましてこっちが負けた時は、ものゝ分った伯・・・ 芥川竜之介 「兄貴のような心持」
・・・そこで彼は敵打の一行が熊本の城下を離れた夜、とうとう一封の書を家に遺して、彼等の後を慕うべく、双親にも告げず家出をした。 彼は国境を離れると、すぐに一行に追いついた。一行はその時、ある山駅の茶店に足を休めていた。左近はまず甚太夫の前へ手・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・「どんな事と云って、そう一口には申せませんがな。――しかし、貴方がたは、そんな話をお聞きなすっても、格別面白くもございますまい。」「可哀そうに、これでも少しは信心気のある男なんだぜ。いよいよ運が授かるとなれば、明日にも――」「信・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・私は元よりの洋行帰りの一人として、すべて旧弊じみたものが大嫌いだった頃ですから、『いや一向同情は出来ない。廃刀令が出たからと云って、一揆を起すような連中は、自滅する方が当然だと思っている。』と、至極冷淡な返事をしますと、彼は不服そうに首を振・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・月明りの仄めいた洛陽の廃都に、李太白の詩の一行さえ知らぬ無数の蟻の群を憐んだことを! しかしショオペンハウエルは、――まあ、哲学はやめにし給え。我我は兎に角あそこへ来た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・だがまさか――まさかその麦酒のコップへ、あの婆が舌を入れて、一口頂戴したって次第でもなかろう。それならかまわないから、干してしまい給え。」――こう云う具合に泰さんは、いろいろ沈んだ相手の気を引き立てようとしましたが、新蔵は益々ふさぐ一方で、・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 一行はまた歩きだした。それからは坂道はいくらもなくって、すぐに広々とした台地に出た。そこからずっとマッカリヌプリという山の麓にかけて農場は拡がっているのだ。なだらかに高低のある畑地の向こうにマッカリヌプリの規則正しい山の姿が寒々と一つ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・謡はずいぶん長い間やっていたが、そのわりに一向進歩しないようであった。いったい私の家は音楽に対する趣味は貧弱で、私なども聴くことは好きであるが、それに十分の理解を持ちえないのは、一生の大損失だと思っている。・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・ 真偽のほどは知らないが、おなじ城下を東へ寄った隣国へ越る山の尾根の談義所村というのに、富樫があとを追って、つくり山伏の一行に杯を勧めた時、武蔵坊が鳴るは滝の水、日は照れども絶えずと、謡ったと伝うる(鳴小さな滝の名所があるのに対して、こ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
出典:青空文庫