・・・せっかく一身を立てさせようと思えばこそ、祖先伝来の田地を減らしてまで学資を給してくれた父を、まあ失望させたような有様で、草深い田舎にこの年まで燻ぶらせているかと思うと、何となく悲しい心持になってしまうのだ。三十にしてなお俗吏なりと云うような・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・近頃の東京近郊の面目を一新させた因子のうちで最も有効なものと云えば、コンクリートの鋪装道路であろうと思われる。道路に土が顔を出している処には近代都市は存在しないということになるらしい。 荒川放水路の水量を調節する近代科学的閘門の上を通っ・・・ 寺田寅彦 「ゴルフ随行記」
・・・ある人は面目を一新したと云って多大の希望をかけたようであり、またある人は別段の変りもないと云って落着いていた。前者は相に注目したのであり、後者は本質の事を云ったのであろう。今年も多少の相の変化はあるに相違ない。ある意味では変化し過ぎて困るか・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・記者たる事によって一身の利益を計るに便宜を得るような可能性は始めから除去するような制度組織が必要である。ほんとうに社会の利益のみしか考えない人ばかりならばその必要はないが、この用心はだれも知るとおり今のところどうしても必要である。 もし・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
・・・この小説の中に、かつてシャンパンユの平和なる田園に生れて巴里の美術家となった一青年が、爆裂弾のために全村尽く破滅したその故郷に遊び、むかしの静な村落が戦後一変して物質的文明の利器を集めた一新市街になっているのを目撃し、悲愁の情と共にまた一縷・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神が籠るはずがない。すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。私は芸術家というほどのものでもないが、まあ文学上の述作をやっているから、やはりこの種・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・ じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。 しばらくして、女がまたこう云っ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・知るや知らずや、其不平は人を謗るにも非ず、物妬むにも非ず、唯是れ婦人自身の権利を護らんとするの一心のみ。其心中の真面目をも忖度せずして、容易に之に附するに敗徳の名を以てす、無理無法に非ずして何ぞや。百千年来蛮勇狼藉の遺風に籠絡せられて、僅に・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・幼少の時より不整頓不始末なる家風の中に眠食し、厳父は唯厳なるのみにして能く人を叱咤しながら、其一身は則ち醜行紛々、甚だしきは同父異母の子女が一家の中に群居して朝夕その一父衆母の言語挙動を傍観すれば、父母の行う所、子供の目には左までの醜と見え・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ 前章にいえる如く、当世の学者は一心一向にその思想を政府の政に凝らし、すでに過剰にして持てあましたる官員の中に割込み、なおも奇計妙策を政の実地に施さんとする者は、その数ほとんどはかるべからず。ただに今日、熱中奔走する者のみならず、内外に・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
出典:青空文庫