火遁巻 千曲川に河童が棲んでいた昔の話である。 この河童の尻が、数え年二百歳か三百歳という未だうら若い青さに痩せていた頃、嘘八百と出鱈目仙人で狐狸かためた新手村では、信州にかくれもなき怪しげな年中行事が行われ、毎年大晦日の夜・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・高い天井、白い壁、その上ならず壇の上には時ならぬ草花、薔薇などがきれいな花瓶にさしてありまして、そのせいですか、どうですか、軽い柔らかな、いいかおりが、おりおり暖かい空気に漂うて顔をなでるのです。うら若い青年、まだ人の心の邪なことや世のさま・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・論理的に確実なある物を捕える喜びは、もうこの頃から彼のうら若い頭に滲み渡っていた。数理に関する彼の所得は学校の教程などとは無関係に驚くべき速度で増大した。十五歳の時にはもう大学に入れるだけの実力があるという事を係りの教師が宣言した。 し・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・の前で説明をしていた案内者はまだうら若い女であった。いったいに病身らしくて顔色も悪く、なんとなく陰気な容貌をしていた。見物人中の学生ふうの男が「失礼ですが、貴嬢は毎日なんべんとなく、そんな恐ろしい事がらを口にしている、それで神経をいためるよ・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・時にはこれも畢竟妹夫婦があんまり意気地がないから親類までが馬鹿にするのだと独りで怒ってみて、どうでもなるがいいなどと棄鉢な事を考える事もあったがさて病人の頼み少ない有様を見聞き、妹がうら若い胸に大きな心配を抱いて途方にくれながらも一生懸命に・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・ ことにありあり思い出されるのは同じ縁側に黙って腰をかけていた、当時はまだうら若い浴衣姿の、今はとくの昔になき妻の事どもである。 飛び石のそばに突兀としてそびえた楠の木のこずえに雨気を帯びた大きな星が一ついつもいつもかかっていたよう・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・はわれわれのうら若い頭に何かしら神秘な雰囲気のようなものを吹き込んだ、あるいは神秘な存在、不可思議な世界への憧憬に似たものを鼓吹したように思われる。日常茶飯の世界のかなたに、常識では測り知り難い世界がありはしないかと思う事だけでも、その・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・下谷のある町の金貸しの婆さんの二階に間借りして、うら若い妻と七輪で飯を焚いて暮している光景のすぐあとには、幼い児と並んで生々しい土饅頭の前にぬかずく淋しい後姿を見出す。ティアガルテンの冬木立や、オペラの春の夜の人の群や、あるいは地球の北の果・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
出典:青空文庫