・・・いつが起りということもなくもう久しい以前からそうなって畢った。彼は六十を越しても三四十代のもの、特に二十代のものとのみ交って居た。彼の年輩のものは却て彼の相手ではない。彼は村には二人とない不男である。彼は幼少の時激烈なる疱瘡に罹った。身体一・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・上れば上るほど怪しい心持が起りそうであるから。 四階へ来た時は縹渺として何事とも知らず嬉しかった。嬉しいというよりはどことなく妙であった。ここは屋根裏である。天井を見ると左右は低く中央が高く馬の鬣のごとき形ちをしてその一番高い背筋を通し・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・狂いを経に怒りを緯に、霰ふる木枯の夜を織り明せば、荒野の中に白き髯飛ぶリアの面影が出る。恥ずかしき紅と恨めしき鉄色をより合せては、逢うて絶えたる人の心を読むべく、温和しき黄と思い上がれる紫を交る交るに畳めば、魔に誘われし乙女の、我は顔に高ぶ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・白痴の主人公は、愛情の昂奮に駆られた時、不意に対手の頭を擲ろうとする衝動が起り、抑えることが出来ないで苦しむのである。それを初めて読んだ時、まさしくこれは僕のことを書いたのだと思ったほどだ。僕は少年時代に黒岩涙香やコナン・ドイルの探偵小説を・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・心緒無レ美女は、心騒敷眼恐敷見出して、人を怒り言葉※て人に先立ち、人を恨嫉み、我身に誇り、人を謗り笑ひ、我人に勝貌なるは、皆女の道に違るなり。女は只和に随ひて貞信に情ふかく静なるを淑とす。 冒頭第一、女は容よりも心の勝れたるを善・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・たりては、学者は区々たる政府の政を度外に置き、政府は瑣々たる学者の議論を度外に置き、たがいに余地を許してその働をたくましゅうせしめ、遠く喜憂の目的をともにして間接に相助くることあらば、民権も求めずして起り、政体も期せずして成り、識らず知らず・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・かつふれて巌の角に怒りたるおとなひすごき山の滝つせ この歌は滝の勢を詠みたるものにて、言葉にては「怒りたる」が主眼なり。さるを第三句に主眼を置きしゆえ結末弱くなりて振わず。「怒り落つる滝」などと結ぶが善し。島崎土夫主・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・和歌に代りて起りたる俳句幾分の和歌臭味を加えて元禄時代に勃興したるも、支麦以後ようやく腐敗してまた拯うに道なからんとす。ここにおいて蕪村は複雑的美を捉え来たりて俳句に新生命を与えたり。彼は和歌の簡単を斥けて唐詩の複雑を借り来たれり。国語の柔・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ そこで、やっぱり不思議なことが起りました。 ある霜の一面に置いた朝納屋のなかの粟が、みんな無くなっていました。みんなはまるで気が気でなく、一生けん命、その辺をかけまわりましたが、どこにも粟は、一粒もこぼれていませんでした。 み・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・ 大王もごつごつの胸を張って怒りました。「なにを。証拠はちゃんとあるじゃ。また帳面にも載っとるじゃ。貴さまの悪い斧のあとのついた九十八の足さきがいまでもこの林の中にちゃんと残っているじゃ。」「あっはっは。おかしなはなしだ。九十八・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
出典:青空文庫