・・・ もう遅いんですよ……」 斯う云うと、長女は初めて納得したようにうなずいた。 で三人はまた、彼等の住んでいた街の方へと引返すべく、十一時近くなって、電車に乗ったのであった。その辺の附近の安宿に行くほか、何処と云って指して行く知合の家・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・夕食は朝が遅いから自然とおくれて午後十一時頃になる。此時はオートミルやうどんのスープ煮に黄卵を混ぜたりします。うどんは一寸位に切って居りました。 食事は普通人程の分量は頂きました。お医者様が「偉いナー私より多いがナー」と言われる位で有り・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・それほど彼らは逃げ足が遅い。逃げ足が遅いだけならまだしも、わずかな紙の重みの下で、あたかも梁に押えられたように、仰向けになったりして藻掻かなければならないのだった。私には彼らを殺す意志がなかった。それでそんなとき――ことに食事のときなどは、・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・それよりか海に行こうとお絹の高い声に、店の内にて、もう遅いゆえやめよというは叔父なり、『叔父さんまだ起きていたの、今汐がいっぱいだからちょっと浴びて来ます浅いところで。』『危険危険遅いから。』『吉さんにいっしょに行ってもらい・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・人間の教養として文学の趣味はあっても倫理学の素養のないということは不具であって、それはその人の美の感覚に比し、善の感覚が鈍いことの証左となり、その人の人間としての素質のある低さと、頽廃への傾向を示すものである。美の感覚強くして善の関心鈍きと・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 黄色い鈍い太陽は、遠い空からさしていた。 屋根の上に、敵兵の接近に対する見張り台があった。その屋根にあがった、一等兵の浜田も、何か悪戯がしてみたい衝動にかられていた。昼すぎだった。「おい、うめえ野郎が、あしこの沼のところでノコ・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・主人は座敷、吉は台所へ下って昼の食事を済ませ、遅いけれども「お出なさい」「出よう」というので以て、二人は出ました。無論その竿を持って、そして場処に行くまでに主人は新しく上手に自分でシカケを段細に拵えました。 さあ出て釣り始めると、時雨が・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・身体と身体が床の上をずる音がして、締め込みでもされているらしいつまった鈍い声が聞えた。――瞬間、今迄喧しかった監房という監房が抑えられたようにシーンとなった。俺は途中まで箸を持ちあげたまゝ、息をのんでいた。 と、――その時、誰か一人が突・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・「もう遅いから子供はお帰り。姉さんのお通夜は俺達でするからナ。それにここは病院でもあるからナ」 と宗太が年長者らしく言ったので、直次の娘はおげんの枕もとに白いお団子だの水だのをあげて置いて、子供と一緒に終りの別れを告げて行った。・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・青い目で空を仰ぐような事もない。鈍い、悲しげな、黒い一団をなして、男等は並木の間を歩いている。一方には音もなくどこか不思議な底の方から出て来るような河がある。一方には果もない雪の原がある。男等の一人で、足の長い、髯の褐色なのが、重くろしい靴・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
出典:青空文庫