・・・ 善ニョムさんは、ハッ、ハッ息を切らしながら、天秤棒の上に腰を下ろすと、何よりもさきに青黒い麦の芽に眼を配った。 黒くて柔らかい土塊を破って青い小麦の芽は三寸あまりも伸びていた。一団、一団となって青い房のように、麦の芽は、野づらをわ・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・麦の間を一畝ずつあけておいてそこへ西瓜の種を下ろす。畑のめぐりには蜀黍をぎっしり蒔いた。麦が刈られてからは日は暑くなる。西瓜の嫩葉は赤蠅が来て甞めてしまうので太十は畑へつききりにしてそれを防いだ。敏捷な赤蠅はけはいを覗って飛び去るので容易に・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・とシワルドが、進めぬ先から腰懸の上にどさと尻を卸す。「今日の晩食に顔色が悪う見えたから見舞に来た」と片足を宙にあげて、残れる膝の上に置く。「さした事もない」とウィリアムは瞬きして顔をそむける。「夜鴉の羽搏きを聞かぬうちに、花多き国に・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 病人を板か何かに載せて卸すと云うことは、不可能なことであった。病人を負って下りることもできなかった。然し、首に綱をつけて吊り下すことはできた。ただ、そうすると、病人は、もっと早く死ぬことになるのだった。 どうして卸したらいいだろう・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・藩中に商業行わるれば上士もこれを傍観するに非ず、往々竊に資本を卸す者ありといえども、如何せん生来の教育、算筆に疎くして理財の真情を知らざるが故に、下士に依頼して商法を行うも、空しく資本を失うか、しからざればわずかに利潤の糟粕を嘗るのみ。・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・その間には人指し指を器械的に脣の辺まで挙げてまた卸す。しかし目は始終紙を見詰めている。 この男がどんな人物だと云うことは、一目見れば知れる。態度はいかにも威厳があって、自信力に富んでいるらしい。顔は賢そうで、煎じ詰めたようで、やや疲労の・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・錠を卸すきしめきが聞えた。 ツァウォツキイはぼんやり戸の外に立っている。刹那に発した怒りは刹那に消え去って、ツァウォツキイはもう我子を打ったことをひどく恥ずかしく思っている。 ツァウォツキイは間の悪げにあたりを見廻した。そして小刀で・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ ナポレオンは寝台に腰を降ろすとルイザの脹らかな腰に手をかけた。だが、彼は今ハプスブルグの娘に、自分の腹をかくし通した苦痛な時間が腹立たしくなって来た。彼は腹部の醜い病態をルイザの眼前にさらしたかった。その高貴をもって全ヨーロッパに鳴り・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・そのまま内庭へ這入って行って叺を下ろすと、流し元にいたお霜が嶮しい顔をして彼の傍へ寄って来た。「お前まアどうするつもりや、あんな者連れ込んで来てさ。」「抛っておいたらええが。」「抛っておけって、たちまちお前どこへ置くぞ。汚い! ・・・ 横光利一 「南北」
・・・実に静静とした美しさで、そして、いつの間にかすべてをずり落して去っていく、恐るべき魔のような難題中のこの難題を、梶とて今、この若い栖方の頭に詰めより打ち降ろすことは忍びなかった。いや、梶自身としてみても自分の頭を打ち割ることだ。いや、世界も・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫