・・・…… 寛文十年陰暦十月の末、喜三郎は独り蘭袋に辞して、故郷熊本へ帰る旅程に上った。彼の振分けの行李の中には、求馬左近甚太夫の三人の遺髪がはいっていた。 後談 寛文十一年の正月、雲州松江祥光院の墓所には、四基の石塔・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ その人に傲らない態度が、伝右衛門にとっては、物足りないと同時に、一層の奥床しさを感じさせたと見えて、今まで内蔵助の方を向いていた彼は、永年京都勤番をつとめていた小野寺十内の方へ向きを換えると、益、熱心に推服の意を洩し始めた。その子供ら・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透って来る寂しさは、この云いようのない寂しさは、一体どこから来るのであろう。――内蔵助は、青空に象嵌をしたような、堅く冷い花を仰ぎながら、いつまでもじっと彳んでいた。・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・造り変える力なのです。」 老人は薔薇の花を投げた。花は手を離れたと思うと、たちまち夕明りに消えてしまった。「なるほど造り変える力ですか? しかしそれはお前さんたちに、限った事ではないでしょう。どこの国でも、――たとえば希臘の神々と云・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・いや、パンもいつかはまたよみ返るかも知れません。しかし我々はこの通り、未だに生きているのです。」 オルガンティノは珍しそうに、老人の顔へ横眼を使った。「お前さんはパンを知っているのですか?」「何、西国の大名の子たちが、西洋から持・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・己に出でて己に返るさ。おれの方ばかり悪いんじゃない。」 牧野は険しい眼をしながら、やけに葉巻をすぱすぱやった。お蓮は寂しい顔をしたなり、しばらくは何とも答えなかった。 十「あの白犬が病みついたのは、――そう・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・が、急にふり返ると、やはりただ幕ばかりが、懶そうにだらりと下っている。そんな事を繰り返している内に、僕はだんだん酒を飲むのが、妙につまらなくなって来たから、何枚かの銭を抛り出すと、そうそうまた舟へ帰って来た。「ところがその晩舟の中に、独・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものも忽ち不完全に感ぜられてしまう。 危険思想 危険思想とは常識を実行に移そうとする思想で・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・僕は急に無気味になり、慌ててスリッパアを靴に換えると、人気のない廊下を歩いて行った。 廊下はきょうも不相変牢獄のように憂鬱だった。僕は頭を垂れたまま、階段を上ったり下りたりしているうちにいつかコック部屋へはいっていた。コック部屋は存外明・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・無論、仲間同志のほめ合にしても、やっぱり評価表の事実を、変える訳には行きません。まあ精々、骨を折って、実際価値があるようなものを書くのですな。」「しかし、その測定器の評価が、確かだと云う事は、どうしてきめるのです。」「それは、傑作を・・・ 芥川竜之介 「MENSURA ZOILI」
出典:青空文庫