・・・それが間違っていない限りはまるで方角の分らぬ者には必要欠くべからざるものである。京都見物の人が土産話の種とすると同様、日常常識として結構であるかもしれぬが畢竟は絵で見た景色と同様で本当の知識ではない。いわんやせっかく案内者が引っぱり廻しても・・・ 寺田寅彦 「科学上における権威の価値と弊害」
・・・については今更にいうまでもないのであるが、この傾向に伴う一つの重大な弊は、学者が自分の専門に属する一つの学全体としての概景を見失ってしまい、従って自分の専門と他の専門との間の関係についての鳥瞰的認識を欠くようになるということである。それだけ・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・この話はつくりごとでないから本名で書くが、その少年の名は林茂といった心の温かい少年で、私はいまでも尊敬している。家庭が貧しくて、学校からあがるとこんにゃく売りなどしなければならなかった私は、学校でも友達が少なかったのに、林君だけがとても仲よ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ ぶち込まれてから吠面掻くな……。 仰向けに、天井板を見つめながら、ヒクヒクと、うずく痛みを、ジッと堪えた。 会社がロックアウトをして以来、モウかれこれ四十日である。印刷機械の錆付きそうな会社の内部に在って、利平達は、職長仲間の団体・・・ 徳永直 「眼」
・・・ 根津の遊里は斯くの如く一時繁栄を極めたが、明治二十一年六月三十日を限りとして取払われ、深川洲崎の埋立地に移転を命ぜられた。娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなったが、独八幡楼の跡のみ、其の庭園の向ヶ岡の阻崖に面して頗幽邃の趣をなし・・・ 永井荷風 「上野」
・・・昼は既に尽きながら、まだ夜にはなりきらない頃、読むことにも書くことにも倦み果てて、これから燈火のつく夜になっても、何をしようという目当も楽しみもないというような時、ふと耳にする鐘の音は、机に頬杖をつく肱のしびれにさえ心付かぬほど、埒もないむ・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・わたくしが始めてチャイコウスキイの作曲イウジェーン・オネーギンの一齣が其の本国人によって其の本国の語で唱われたのを聴得たのは有楽座興行の時であった。斯くの如き演奏は露西亜に赴くに非らざれば、欧洲に在っても容易に聴く機会なきものであろう。わた・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・それ故日本の音楽にはいつも周囲の情景がその音楽的効果の上に欠くべからざる必要を生ぜしめるのはやむをえぬ事であろう。 その日は照り続いた八月の日盛りの事で、限りもなく晴渡った青空の藍色は滴り落つるが如くに濃く、乾いて汚れた倉の屋根の上に高・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ わたくしが菊塢の庭を訪うのも亦斯くの如くである。老人が靉靆の力を借るが如く、わたくしは電車と乗合自動車に乗って向島に行き、半枯れかかっている病樹の下に立って更に珍しくもない石碑の文をよみ、また朽廃した林亭の縁側に腰をかけては、下水のよ・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・菊人形の趣味に一層の俗悪を加えたものである。斯くの如き傾向はいつの時に其の源を発したか。混沌たる明治文明の赴くところは大正年間十五年の星霜を経由して遂にこの風俗を現出するに至ったものと看るより外はない。一たび考察をここに回らせば、世態批判の・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫