・・・まで感じたことの無かった一種崇高な霊感に打たれ、熱いお詫びの涙が気持よく頬を伝って流れて、やがてあの人は私の足をも静かに、ていねいに洗って下され、腰にまとって在った手巾で柔かく拭いて、ああ、そのときの感触は。そうだ、私はあのとき、天国を見た・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・、なかなか、真面目な顔に帰れないもので、ねえ、てのひらを二つならべて一掬の水を貯え、その掌中の小池には、たくさんのおたまじゃくしが、ぴちゃぴちゃ泳いでいて、どうにも、くすぐったく、仁王立ちのまま、その感触にまいっている、そんな工合いの形であ・・・ 太宰治 「思案の敗北」
・・・理性や知性の純粋性など、とうに見失っているらしく、ただくらげのように自分の皮膚感触だけを信じて生きている人間たちにとっては、なかなか有り難い認識論である。ひとつ研究会でも起すか。私もいれてもらいます。 自分の世界観をはっきり持っていなく・・・ 太宰治 「多頭蛇哲学」
・・・女性の皮膚感触の過敏が、氾濫して収拾できぬ触覚が、このような二、三の事実からでも、はっきりと例証できるのである。或る映画女優は、色を白くする為に、烏賊のさしみを、せっせとたべているそうである。あくまで之を摂取すれば、烏賊の細胞が彼女の肉体の・・・ 太宰治 「女人訓戒」
・・・生活を、生活の感触を、溺愛いたします。女が、お茶碗や、きれいな柄の着物を愛するのは、それだけが、ほんとうの生き甲斐だからでございます。刻々の動きが、それがそのまま生きていることの目的なのです。他に、何が要りましょう。高いリアリズムが、女のこ・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・みたいに軽く召上って、そうして間食なんて一度もなさった事は無いのに、このごろはおなかが空いて、恥ずかしいとおっしゃって、それからふっと妙なものを食べたくなるんですって。こないだもお嫂さんは私と一緒にお夕食の後片附けをしながら、ああ口がにがい・・・ 太宰治 「雪の夜の話」
・・・ 三 げじげじとしらみ 父は満五十歳で官職を辞して郷里に退隠した。自分の九歳の春であったと思う。その九歳の自分が「おとうさんはげじげじだよ、げじげじだよ」と言って出入りの人々をつかまえては得意らしく宣伝したものだそ・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・逆に言えば陶器の肌の感触には生きた肉の感じに似たものがある。ある意味において陶器の翫賞はエロチシズムの一変形であるのかもしれない。 青磁の徳利にすすきと桔梗でも生けると実にさびしい秋の感覚がにじんだ。あまりにさびしすぎて困るかもしれない・・・ 寺田寅彦 「青磁のモンタージュ」
・・・されば位階勲章は、官吏が政府の職を勤むるの労に酬いるに非ずして、ただ普通なる日本人の資格をもって、政府の官職をも勤むるほどの才徳を備え、日本国人の中にて抜群の人物なりとて、その人物を表するの意ならん。官吏の内にても、一等官の如きはもっとも易・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・黒と白だけで全部を表現する版画家の人生に対する感情にさまざまな点から新しい興味を喚起されたし、文化の程度の低い民族あるいは社会層の者ほど原色配合を好み、高級となり洗練された人間ほど微妙な間色の配合、陰翳を味わう能力を増すといわれているありき・・・ 宮本百合子 「芸術が必要とする科学」
出典:青空文庫