・・・これに加るに残暑の殊に烈しかった其年の気候はわたくしをして更に奇異なる感を増さしめる原因であった。オペラは欧洲の本土に在っては風雪最凛冽なる冬季にのみ興行せられるのが例である。それ故わたくしの西洋音楽を聴いて直に想い起すものは、深夜の燈火に・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・ わたくしは或日蔵書を整理しながら、露伴先生の『言』中に収められた釣魚の紀行をよみ、また三島政行の『葛西志』を繙いた。これによって、わたくしはむかし小名木川の一支流が砂村を横断して、中川の下流に合していた事を知った。この支流は初め隠坊堀・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・という端物の書き出しには、パリーのある雑誌に寄稿の安受け合いをしたため、ドイツのさる避暑地へ下りて、そこの宿屋の机かなにかの上で、しきりに構想に悩みながら、なにか種はないかというふうに、机のひきだしをいちいちあけてみると、最終の底から思いが・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・或時僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いて其中に下らない詩などを入れて置いた、それを見せた事がある。処が大将頼みもしないのに跋を書いてよこした。何でも其中に、英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我兄の如きは千万人中・・・ 夏目漱石 「正岡子規」
・・・だが、その島も、船が寄港しない島に限るのであった。船がつくと、どんな島でも、資本主義にその生命を枯らされていることが暴露されるからであった。 燈台が一つより外無い島、そして燈台守以外には、一人の人間も居ない島、そんな島が幾つも浮んでいた・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・ 彼女は、マニラの生産品を積んで、三池へ向って、帰航の途についた。 水夫の一人が、出帆すると間もなく、ひどく苦しみ始めた。 赤熱しない許りに焼けた、鉄デッキと、直ぐ側で熔鉱炉の蓋でも明けられたような、太陽の直射とに、「又当てられ・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・○くだものと気候 気候によりてくだものの種類または発達を異にするのはいうまでもない。日本の本州ばかりでいっても、南方の熱い処には蜜柑やザボンがよく出来て、北方の寒い国では林檎や梨がよく出来るという位差はある。まして台湾以南の熱帯地方では・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・血達磨の紀行には時として人を驚かすような奇語奇文奇行がないではないが、惜しい事には文字に不穏当な処が多い。殊にその豪傑志士を気取る処は俗受けのする処であってその実その紀行の大欠点である。某の東北徒歩旅行は始めよりこの徒歩旅行と両々相対して載・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
紀行文をどう書いたら善いかという事は紀行の目的によって違う。しかし大概な紀行は純粋の美文的に書くものでなくてもやはり出来るだけ面白く書こうとする即美文的に書こうとする、故に先ず面白く書くという事はその紀行全部の目的でなくても少くも目的・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・ 蕪村は総常両毛奥羽など遊歴せしかども紀行なるものを作らず。またその地に関する俳句も多からず。西帰の後丹後におること三年、因って谷口氏を改めて与謝とす。彼は讃州に遊びしこともありけん、句集に見えたり。また厳島の句あるを見るにこの地の風情・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫