・・・ 夏の月が、その夜は満月でしたが、その月光が雨戸の破れ目から細い銀線になって四、五本、蚊帳の中にさし込んで来て、夫の痩せたはだかの胸に当っていました。「でも、お痩せになりましたわ。」 私も、笑って、冗談めかしてそう言って、床の上・・・ 太宰治 「おさん」
・・・ そう言いながら左手をたかく月光にかざし、自分のてのひらのその太陽線とかいう手筋をほれぼれと眺めたのである。 運勢なんて、ひらけるものか。それきりもう僕は青扇と逢っていない。気が狂おうが、自殺しようが、それはあいつの勝手だと思っ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・と言わぬばかりの色目をつかい、そうして、その激昂の相手に対し、「いや、わるかったよ、あやまるよ、お辞儀をします」など言ってるのを見かけることがあるけれども、あれは、まことにイヤミなものである。卑怯だと思う。あんな態度に出られたら、悲憤の男は・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・ 唄合戦の揚句に激昂した恋敵の相手に刺された青年パーロの瀕死の臥床で「生命の息を吹込む」巫女の挙動も実に珍しい見物である。はじめには負傷者の床の上で一枚の獣皮を頭から被って俯伏しになっているが、やがてぶるぶると大きくふるえ出す、やがてむ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・十三夜ぐらいかと思う月光の下に、黙って音も立てず、フワリフワリと空中に浮いてでもいるように。四月四日 日曜で早朝楽隊が賛美歌を奏する。なんとなく気持ちがいい。十時に食堂でゴッテスディーンストがある。同じ事でも西洋の事は西洋人がやって・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・あるいは蚊帳の中の青ずんだ光が、森の月光に獲物をもとめて歩いた遠い祖先の本能を呼びさますのではあるまいか。もし色の違ったいろいろの蚊帳があったら試験してみたいような気もした。 じゃれる品物の中でおもしろいのは帯地を巻いておく桐の棒である・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・ちょうど運動場のようで、もっと広い草原の中をおぼろな月光を浴びて現ともなくさまようていた。淡い夜霧が草の葉末におりて四方は薄絹に包まれたようである。どこともなく草花のような香がするが何のにおいとも知れぬ。足もとから四方にかけ・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・ 道太は格別の興味も惹かなかったけれど、ある晩お絹と辰之助とで、ほとんど毎晩の癖になっている、夜ふけてからの涼みに出て、月光が蛇のように水面を這っている川端をぶらぶらあるいていると、ふとその劇場の前へ出た。お絹はそういうときの癖で、踊り・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・また我が党の士、幽窓の下におりて、秋夜月光に講究すること、旧日に異なることなきを得て、修心開知の道を楽しみ、私に済世の一斑を達するは、あにまた天与の自由を得るものといわざるべけんや。 然ばすなわち我が輩の所業、その形は世情と相反するに似・・・ 福沢諭吉 「中元祝酒の記」
・・・ 然りといえども勝氏も亦人傑なり、当時幕府内部の物論を排して旗下の士の激昂を鎮め、一身を犠牲にして政府を解き、以て王政維新の成功を易くして、これが為めに人の生命を救い財産を安全ならしめたるその功徳は少なからずというべし。この点に就ては我・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
出典:青空文庫