・・・子供は、木の枝で造った、胡弓を手に持っていました。 二人は、そこにあった小舎の中に、身を隠しました。「父ちゃん、さびしいの。」と、子供はいいました。「ああ、さびしい。」「父ちゃん、なにか、おもしろい話をして、聞かしておくれよ・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・爺は胡弓を持って、とぼとぼと子供の後から従いました。 その町の人々は、この見慣れない乞食の後ろ姿を見送りながら、どこからあんなものがやってきたのだろう。これから風の吹くときには気をつけねばならぬ。火でもつけられたりしてはたいへんだ。早く・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・それを考うる時、四六時中警笛におびやかされ、塵埃を呼吸しつゝある彼等に対して、涙なきを得ないのである。 彼等にせめて、一日のうち、もしくは、一週間のうち幾何かの間を、全く、交通危険に晒らされることから解放して、自由に跳躍し遊戯せしむるこ・・・ 小川未明 「児童の解放擁護」
・・・力ない病人の呼吸は一息ごとに弱って行って、顔は刻々に死相を現わし来たるのを、一同涙の目に見つめたまま、誰一人口を利く者もない。一座は化石したようにしんとしてしまって、鼻を去む音と、雇い婆が忍びやかに題目を称える声ばかり。 やがてかすかに・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・私は学校にいた時呼吸器を悪くして三月許り休学していたことがある。徴兵官は私の返答をきくとそりゃ惜しいことをしたなと言い、そしてジロリと私の頭髪を見て、この頃そういう髪の型が流行しているらしいが、流行を追うのは知識人らしくないと言った。私はい・・・ 織田作之助 「髪」
・・・一間ばかりの所を一朝かかって居去って、旧の処へ辛うじて辿着きは着いたが、さて新鮮の空気を呼吸し得たは束の間、尤も形の徐々壊出した死骸を六歩と離れぬ所で新鮮の空気の沙汰も可笑しいかも知れぬが――束の間で、風が変って今度は正面に此方へ吹付ける、・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 彼は何気ない風して言ったが、呼吸も詰るような気がされた。「なるほど俺もああかな、……なるほど俺と似ているわい」 彼はそこそこに屋根に下りて、書斎に引っこんでしまった。 青い顔して、人目を避けて、引っこんでいる耕吉の生活は、村の・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・この時脈は百三十を越して、時々結滞あり、呼吸は四十でした。すると、病人は直ぐ「看護婦さん、そりゃ間違っているでしょう。お母さん脈」といって手を差出しました。私はその手を握りながら「ああ脈は百十だね、呼吸は三十二」と訂正しました。普段から、こ・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・窓のなかの二人はまるで彼の呼吸を呼吸しているようであり、彼はまた二人の呼吸を呼吸しているようである、そのときの恍惚とした心の陶酔を思い出していた。「それに比べて」と彼は考え続けた。「俺が彼女に対しているときはどうであろう。俺はまるで・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・さてさらに貴嬢の解し難きものの一を言わんか、この気を呼吸するかの二郎なり。何ゆえぞと問いたまいそ、貴嬢もしよくこれを解し得る少女ならんにはいかで暗き穴よりかの無残なる箭を放たんや。二郎述べおわりて座につくや拍手勇ましく起こり、かれが周囲には・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
出典:青空文庫