古来例のない、非常な、この出来事には、左の通りの短い行掛りがある。 ロシアの医科大学の女学生が、ある晩の事、何の学科やらの、高尚な講義を聞いて、下宿へ帰って見ると、卓の上にこんな手紙があった。宛名も何も書いてない。「あなたの御関係・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・私はこんな行為を愛ということは出来ぬ。本当の愛があれば、その場合それを凝視すべきである。真の傍観者に愛がないということは云えない。一つの事実をじっと凝視するという事は、即ち凝視そのものが私はある意味で愛そのものだと云い得ると思う。この意味か・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・「お前さん、こんなとこで寝るのに着物を着て寝る者があるもんですか。褌一筋だって、肌に着けてちゃ、螫られて睡られやしない、素裸でなくっちゃ……」 なるほど、そう言われて気をつけて見ると、誰も誰も皆裸で布団に裹まって、木枕の間から素肌が・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・と訊くから、何しろこんな、出水で到底渡れないから、こうして来たのだといいながら、ふと後を振返って見ると、出水どころか、道もからからに乾いて、橋の上も、平時と少しも変りがない、おやッ、こいつは一番やられたわいと、手にした折詰を見ると、こは如何・・・ 小山内薫 「今戸狐」
・・・ こうして客引きが出迎えているところを見ると、こんな夜更けに着く客もあるわけかとなにかほっとした。それにしても、この客引きのいる宿屋は随分さびれて、今夜もあぶれていたに違いあるまいと思った。あとでこの温泉には宿屋はたった一軒しかないこと・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・自分は大した贅沢な生活を望んで居るのではない、大した欲望を抱いて居るのではない、月に三十五円もあれば自分等家族五人が饑彼にはよくこんなことが空想されたが、併しこの何ヵ月は、それが何処からも出ては来なかった。何処も彼処も封じられて了った。一日・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・兎に角お友達から来る手紙を待ちに待った様子で有りました。こんな訳で、内証言は一つも言えませんから、私は医師の宅まで出かけて本当の容態を聴こうと思いました。これは余程思切った事で、若し医師が駄目と言われたら何としようと躊躇しましたが、それでも・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ ――こんなことを考えているのである! ところが、最近、ふとしたことから、この空想の致命的な誤算が曝露してしまった。 元来、猫は兎のように耳で吊り下げられても、そう痛がらない。引っ張るということに対しては、猫の耳は奇妙な構造を持っている・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・そしてかごの上に結んである緋縮緬のくけ紐をひねくりながら、「こんな紐なぞつけて来るからなおいけない、露見のもとだ、何よりの証拠だ」と、法科の上田がその四角の顔をさらにもっともらしくして言いますと、鷹見が、「しかし樋口には何よりこの紐がう・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ これは万葉にある歌だがいい歌だと思う。 こんな気持は恋愛から入った夫婦でなくては生じないだろう。 性交は夫婦でなくてもできるが、子どもを育てるということは人間のように愛が進化し、また子どもが一人前になるのに世話のやける境涯では・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
出典:青空文庫