・・・当時その避暑地に住んでいた彼は、雨が降っても、風が吹いても、午前は八時発の下り列車に乗り、午後は四時二十分着の上り列車を降りるのを常としていた。なぜまた毎日汽車に乗ったかと云えば、――そんなことは何でも差支えない。しかし毎日汽車になど乗れば・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ 我ら十七名の会員は心霊協会会長ペック氏とともに九月十七日午前十時三十分、我らのもっとも信頼するメディアム、ホップ夫人を同伴し、該ステュディオの一室に参集せり。ホップ夫人は該ステュディオにはいるや、すでに心霊的空気を感じ、全身に痙攣を催・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・「まあ、御待ちなさい。御前さんはそう云われるが、――」 オルガンティノは口を挟んだ。「今日などは侍が二三人、一度に御教に帰依しましたよ。」「それは何人でも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・「御前は銀の煙管を持つと坊主共の所望がうるさい。以来従前通り、金の煙管に致せと仰せられまする。」 三人は、唖然として、為す所を知らなかった。 七 河内山宗俊は、ほかの坊主共が先を争って、斉広の銀の煙管を・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・この様を見たる喜左衛門は一時の怒に我を忘れ、この野郎、何をしやがったと罵りけるが、たちまち御前なりしに心づき、冷汗背を沾すと共に、蹲踞してお手打ちを待ち居りしに、上様には大きに笑わせられ、予の誤じゃ、ゆるせと御意あり。なお喜左衛門の忠直なる・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・丁度、その時、御会席で御膳が出たので、暫くはいろいろな話で賑やかだったが、中洲の大将は、房さんの年をとったのに、よくよく驚いたと見えて、「ああも変るものかね、辻番の老爺のようになっちゃあ、房さんもおしまいだ。」「いつか、あなたがおっ・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・お傍医師が心得て、……これだけの薬だもの、念のため、生肝を、生のもので見せてからと、御前で壺を開けるとな。……血肝と思った真赤なのが、糠袋よ、なあ。麝香入の匂袋ででもある事か――坊は知るまい、女の膚身を湯で磨く……気取ったのは鶯のふんが入る・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ それでは御膳にしてあげましょうか。 そうしましょうかね。 それでははじめから、そうしてあげるのだったんですが、手はなし、こうやって小児に世話が焼けますのに、入相で忙しいもんですから。……あの、茄子のつき加減なのがありますから、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ ごぼりと咳いて、「御前じゃ。」 しゅッと、河童は身を縮めた。「日の今日、午頃、久しぶりのお天気に、おらら沼から出たでしゅ。崖を下りて、あの浜の竃巌へ。――神職様、小鮒、鰌に腹がくちい、貝も小蟹も欲しゅう思わんでございましゅ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ と低いが壁天井に、目を上げつつ、「角海老に似ていましょう、時計台のあった頃の、……ちょっと、当世ビルジングの御前様に対して、こういっては相済まないけども。……熟と天頂の方を見ていますとね、さあ、……五階かしら、屋の棟に近い窓に、女・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
出典:青空文庫