立てきった障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木の梅の影が、何間かの明みを、右の端から左の端まで画の如く鮮に領している。元浅野内匠頭家来、当時細川家に御預り中の大石内蔵助良雄は、その障子を後にして、端然と膝を重ねた・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・「御止しなさいましよ。御召しでもよごれるといけません。」 お蓮は婆さんの止めるのも聞かず、両手にその犬を抱きとった。犬は彼女の手の内に、ぶるぶる体を震わせていた。それが一瞬間過去の世界へ、彼女の心をつれて行った。お蓮はあの賑かな家に・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・けれども彼は濫りなさし出口はしなかった。いささかでも監督に対する父の理解を補おうとする言葉が彼の口から漏れると、父は彼に向かって悪意をさえ持ちかねないけんまくを示したからだ。彼は単に、農場の事務が今日までどんな工合に運ばれていたかを理解しよ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 本堂正面の階に、斜めに腰掛けて六部一人、頭より高く笈をさし置きて、寺より出せしなるべし。その廚の方には人の気勢だになきを、日の色白く、梁の黒き中に、渠ただ一人渋茶のみて、打憩ろうていたりけり。 その、もの静に、謹みたる状して俯向く・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・「いや、串戯は止して……」 そうだ! 小北の許へ行かねばならぬ――と思うと、のびのびした手足が、きりきりと緊って、身体が帽子まで堅くなった。 何故か四辺が視められる。 こう、小北と姓を言うと、学生で、故郷の旧友のようであるが・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・「ほんとに串戯は止して新さん、きづかうほどのことはないのでしょうね。」「いいえ、わけやないんだそうだけれど、転地しなけりゃ不可ッていうんです。何、症が知れてるの。転地さえすりゃ何でもないって。」「そんならようござんすけれど、そし・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・「あれ、止して頂戴、止してよ。」 と浮かした膝を揺ら揺らと、袖が薫って伸上る。「なぜですてば。」「危いわ、危いわ。おとなしい、その優しい眉毛を、落したらどうしましょう。」「その事ですかい。」 と、ちょっと留めた剃刀を・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・「だって、こんな池で助船でも呼んでみたが可い、飛んだお笑い草で末代までの恥辱じゃあないか、あれお止しよ。」 と言うのに、――逆について船がぐいと廻りかけると、ざぶりと波が立った。その響きかも知れぬ。小さな御幣の、廻りながら、遠くへ離・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ うず高に水を盛り上げてる天神川は、盛んに濁水を両岸に奔溢さしている。薄暗く曇った夕暮の底に、濁水の溢れ落つる白泡が、夢かのようにぼんやり見渡される。恐ろしいような、面白いような、いうにいわれない一種の強い刺戟に打たれた。 遠く亀戸・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・がわるいので皆んな何とも云わずに家へ逃げかえってしまった、その中にたった一人岩根村の勘太夫の娘の小吟と云うのはまだ九つだったけれ共にげもしないでおとなしく、「もう少し行らっしゃると私の家ですから湯でもさしあげましょう」とその坊さんに力をつけ・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
出典:青空文庫