・・・それを露柴はずっと前から、家業はほとんど人任せにしたなり、自分は山谷の露路の奥に、句と書と篆刻とを楽しんでいた。だから露柴には我々にない、どこかいなせな風格があった。下町気質よりは伝法な、山の手には勿論縁の遠い、――云わば河岸の鮪の鮨と、一・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・ 勿論貉は、神武東征の昔から、日本の山野に棲んでいた。そうして、それが、紀元千二百八十八年になって、始めて人を化かすようになった。――こう云うと、一見甚だ唐突の観があるように思われるかも知れない。が、それは恐らく、こんな事から始まったの・・・ 芥川竜之介 「貉」
・・・ むかし、むかし、大むかし、この木は山谷を掩った枝に、累々と実を綴ったまま、静かに日の光りに浴していた。一万年に一度結んだ実は一千年の間は地へ落ちない。しかしある寂しい朝、運命は一羽の八咫鴉になり、さっとその枝へおろして来た。と思うとも・・・ 芥川竜之介 「桃太郎」
・・・しかし広い山野をどう探しようもなかった。夜のあけあけに大捜索が行われた。娘は河添の窪地の林の中に失神して倒れていた。正気づいてから聞きただすと、大きな男が無理やりに娘をそこに連れて行って残虐を極めた辱かしめかたをしたのだと判った。笠井は広岡・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 笛は、胡桃を割る駒鳥の声のごとく、山野に響く。 汽車は猶予わず出た。 一人発奮をくって、のめりかかったので、雪頽を打ったが、それも、赤ら顔の手も交って、三四人大革鞄に取かかった。「これは貴方のですか。」 で、その答も待・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ 最も得意なのは、も一つ茸で、名も知らぬ、可恐しい、故郷の峰谷の、蓬々しい名の無い菌も、皮づつみの餡ころ餅ぼたぼたと覆すがごとく、袂に襟に溢れさして、山野の珍味に厭かせたまえる殿様が、これにばかりは、露のようなよだれを垂し、「牛肉の・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・水を飲んじゃなりましねえ。山野に馴れた爺の目には、沼の水を見さっせえ、お前等がいった、毒虫が、ポカリポカリ浮いてるだ。…… 明神まで引返す、これにも少年が用立った。爺さんにかわって、お誓を背にして走った。 清水につくと、魑魅が枝を下・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・が、涸れて、寂しく、雲も星も宿らないで、一面に散込んだ柳の葉に、山谷の落葉を誘って、塚を築いたように見える。とすれば月が覗く。……覗くと、光がちらちらとさすので、水があるのを知って、影が光る、柳も化粧をするのである。分けて今年は暖さに枝垂れ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・彼は、風と戦い、山野を見下ろして飛んだけれど、ややもすると翼が鈍って、若いものに追い越されそうになるのでした。「おじいさん、ゆっくり飛びましょう。」 若いがんたちは、いくばくもなくして、この年とったがんを冒険の旅路の案内にさせたこと・・・ 小川未明 「がん」
・・・出て行きしな、自分の力で養えるようになったらきっと母を連れに来ますと、集金人の山谷に後のことを頼んだ。かねがね山谷はお君に同情めいた態度を見せ、度を過ぎていると豹一は苦々しかったが、さすがに今はくれぐれも頼みますと頭を下げた。便所でボロボロ・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫