霧がじめじめ降っていた。 諒安は、その霧の底をひとり、険しい山谷の、刻みを渉って行きました。 沓の底を半分踏み抜いてしまいながらそのいちばん高い処からいちばん暗い深いところへまたその谷の底から霧に吸いこまれた次の峯・・・ 宮沢賢治 「マグノリアの木」
・・・ソヴェトの友の会では、去年の十月、革命記念祭に向って見学団派遣を計画し、農民代表として石川県の農民の山野芳松という小父さんが決定されるまでに運んだ。政府は、旅券をよこさなかった。農民にソヴェト同盟の真の姿を見せまいとするのである。 現に・・・ 宮本百合子 「今にわれらも」
・・・人間生活への思意が複雑明瞭になって来る度につれて、さながらしずかにさしのぼる月の運行に準じてあたりの山野が美しい光に溢れて来るように、人間の美しい精神の輝きとしての責任の感情もひろく、深く、大きいものとなってゆくのである。 こんなに未熟・・・ 宮本百合子 「女の歴史」
・・・自然の山野はたしかに村のあちこちで美しいとしても、その美しさをそのままに感じ得ない事情にしばられている人々の胸から、のびのびとした豊かな自然の美を描く言葉はきかれないのが当然ではないか。自然のあらあらしさがどのようであろうと、農民にとっては・・・ 宮本百合子 「自然描写における社会性について」
・・・青柳喜美子、「夕」三谷十糸子、「娘たち」森田沙夷などは、それぞれに愛すべき生活のディテールをとらえて、画に生活の感情をふき込もうとしているに対して煩悶のない有馬氏の「後庭」はじめ「温室」「レモンと花」「静物」等、殆どすべてがアトリエ中心であ・・・ 宮本百合子 「帝展を観ての感想」
・・・脆弱であった四肢には次第に充実した筋力が満ち男性は山野を馳け廻って狩もすれば、通路の安全を妨げる大岩も楽々揺がせるようになる。 女性は、いつかふくよかな胸と輝く瞳とを得、素朴な驚異の下に、新たな生命をこの地上に齎して来る。――毛皮を纏い・・・ 宮本百合子 「われを省みる」
・・・順次の養子熊喜は実は山野勘左衛門の三男で、合力米二十石を給わり、中小姓を勤め、天保八年に病死した。熊喜の嫡子衛一郎は後四郎右衛門と改名し、玉名郡代を勤め、物頭列にせられた。明治三年に鞠獄大属になって、名を登と改めた。景一の五男八助は三歳の時・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・まもなくここで、疲れた身体を横たえるであろう看護婦たちに、彼は山野の清烈な幻想を振り撒いてやるために、そっと百合の花束を匂い袋のように沈めておいて戻って来た。 九 山の上では、また或る日拗く麦藁を焚き始めた。彼は・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・ 私は、昔ながらの山野と矮屋とを見慣れた我々の祖先が、かつて夢みたこともない壮大な伽藍の前に立った時の、甚深な驚異の情を想像する。 伽藍はただ単に大きいというだけではない。久遠の焔のように蒼空を指さす高塔がある。それは人の心を高・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
出典:青空文庫