・・・針はいつもの通り、きちんと六時を指している。「おい。戸を開けんか。」 女中が手を拭き拭き出て来て、雨戸を繰り開ける。外は相変らず、灰色の空から細かい雨が降っている。暑くはないが、じめじめとした空気が顔に当る。 女中は湯帷子に襷を・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・彼は部屋の壁々に彼女の母の代りに新しい花を差し添えた。シクラメンと百合の花。ヘリオトロオプと矢車草。シネラリヤとヒアシンス。薔薇とマーガレットと雛罌粟と。「お前の顔は、どうしてそう急に美しくなったのだろう。お前は十六の娘のようだ。お前は・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・どうか致して、珍らしく日が明るく差しますと、わたくし共二人は並んで窓から外を覗いて見ます。なんでも世の中の大きいもの、声高なものは、みんな遠い遠い所に離れているのでございます。海も、森も、村も、人も。日曜日になりまして、お寺の鐘が響きますと・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・碁石の音が、何か世間に超然としている存在を指しているように思える。松風の音はそういう存在の伴奏なのである。 わたくしの子供の時分には、こういう住持や地主が農村の知識階級を代表していた。その後半世紀を経たのであるから、そういう人たちはもう・・・ 和辻哲郎 「松風の音」
出典:青空文庫