・・・家と屋敷ばかり広うても貧乏士族で実は喰うにも困る中を母が手内職で、子供心にはなんの苦労もなく日を送っていたのでございます。 母も心細いので山家の里に時々帰えるのが何よりの楽しみ、朝早く起きて、淋しい士族屋敷の杉垣ばかり並んだ中をとぼとぼ・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・エ、侯爵面して古い士族を忘れんなと言え。全体彼奴等に頭を下げぺこぺこと頼み廻るなんちゅうことは富岡の塾の名汚しだぞ。乃公に言えば乃公から彼奴等に一本手紙をつけてやるのに。彼奴等は乃公の言うことなら聴かん理由にいかん」 先ずこんな調子。そ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ さて然らば先生は故郷で何を為ていたかというに、親族が世話するというのも拒んで、広い田の中の一軒屋の、五間ばかりあるを、何々塾と名け、近郷の青年七八名を集めて、漢学の教授をしていた、一人の末子を対手に一人の老僕に家事を任かして。 こ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・だから役をひいた時、知人やら親族の者が、隠居仕事を勧め、中には先方にほぼ交渉をつけて物にして来てまで勧めたが、ことごとく以上の理由で拒絶してしまったのである。細君は気軽な人物で何事もあきらめのよいたちだから文句はない。愚痴一つ言わない。お菊・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・共同体の基本は父母であり、氏族であり、血と土地と言語と風習と防敵とを共同にするところの、具体的単位がすなわちくになのである。共生ということの意味を生活体験的に考えるならば、必ず父母を基として、国土に及ばねばならぬ。そしてわれわれに文化伝統を・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・そして郷土の近くの士族の息子が大尉になっているのを、えらいもののように思いこまされた。 しかし、大尉が本当にえらいか? 乃木大将は誰のために三万人もの兵士たちを弾丸の餌食として殺してしてしまったか? そして、班長のサル又や襦袢の洗濯・・・ 黒島伝治 「入営する青年たちは何をなすべきか」
・・・ 主人の憤怒はやや薄らいだらしいが、激情が退くと同時に冷透の批評の湧く余地が生じたか、「そちが身を捨てましても、と云って、ホホホ、何とするつもりかえ。」と云って冷笑すると、女は激して、「イエ、ほんとに身を捨てましても」と・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・谷の一つの浅い部分は耕されて旧士族地を取囲いているが、その桑畠や竹薮を背にしたところに桜井先生の住居があった。先生はエナアゼチックな手を振って、大尉と一緒に松林の多い谷間の方へ長大な体躯を運んで行った。 谷々は緑葉に包まれていた。二人は・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・阿父さんは小田原の士族であった。まだ小さな時分に、両親は北村君を祖父母の手に託して置いて、東京に出た。北村君は十一の年までは小田原にいて、非常に厳格な祖父の教育の下に、成長した。祖母という人は、温順な人ではあったが、実の祖母では無くて、継祖・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・大な士族邸を借て住んだこと、裏庭には茶畠もあれば竹薮もあったこと、自分で鍬を取って野菜を作ったこと、西洋の草花もいろいろ植えて、鶏も飼う、猫も居る――丁度、八年の間、百姓のように自然な暮しをしたことを話した。 原は聞いて貰う積りで、市中・・・ 島崎藤村 「並木」
出典:青空文庫