・・・ 十三「口惜しい!」 紫玉は舷に縋って身を震わす。――真夜中の月の大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮のごとく漾いつつ。「口惜しいねえ。」 車馬の通行を留めた場所とて、人目の恥に歩行みもならず、――金・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・突然、年増の行火の中へ、諸膝を突込んで、けろりとして、娑婆を見物、という澄ました顔付で、当っている。 露店中の愛嬌もので、総籬の柳縹さん。 すなわちまた、その伝で、大福暖いと、向う見ずに遣った処、手遊屋の婦は、腰のまわりに火の気が無・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ちと、腹ごなしに娑婆へ出て来て、嫁御にかき餅でも焼いてやらしゃれ。さて、ついでに私の意気になった処を見され、御同行の婆々どのの丹精じゃ。その婆々どのから、くれぐれも、よろしゅうとな。いやしからば。村越 是非近々に。七左 おんでもない・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・おそらく、三十年の後には、おまえは、またこの娑婆に出てくるだろう。」といわれました。 赤犬は、和尚さまの話を聞いて、さもよくわかるようにうなだれて、二つの目から涙をこぼしていました。 数年の後に、和尚さまも犬も、ついにこの世を去って・・・ 小川未明 「犬と人と花」
・・・すると、まるで私というものは影も形もなしに、この永え間の娑婆からずッと消えたようになくなってしまうわけだ、そう思うと厭だね、ちとあっけなさすぎる……いや、あっけねえよりか第一心細えよ。」「じゃ、旅を歇めて、家を持ったらいいでしょう。家を・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ で、店は繁昌するし、後立てはシッカリしているし、おまけに上さんは美しいし、このまま行けば天下泰平吉新万歳であるが、さてどうも娑婆のことはそう一から十まで註文通りには填まらぬもので、この二三箇月前から主はブラブラ病いついて、最初は医者も・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・何しろ今の娑婆というものは、そりゃ怖ろしいことになって居るんだからね」「併し俺には解らない、どうしてそんなYのような馬鹿々々しいことが出来るのか、僕には解らない」「そこだよ、君に何処か知ら脱けてる――と云っては失敬だがね、それは君は・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・まったく救われない地獄の娑婆だという気がする。死んで行った人、雪の中の監獄のT君、そして自分らだってちっとも幸福ではない。 私も惨めであるが、Fも可哀相だった。彼は中学入学の予習をしているので、朝も早く、晩日が暮れてから遠い由比ヶ浜の学・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・そう言った広大な、人や車馬や船や生物でちりばめられた光景が、どうかしてこの暗黒のなかへ現われてくれるといい。そしてそれが今にも見えて来そうだった。耳にもその騒音が伝わって来るように思えた。 葉書へいたずら書きをした彼の気持も、その変てこ・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・此の娑婆世界にして雉となりし時は鷹につかまれ、鼠となりし時は猫にくらわれ、或いは妻子に、敵に身を捨て、所領に命を失いし事大地微塵よりも多し。法華経の為には一度も失う事なし。されば日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心に足らず、国恩を報ずべき力・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
出典:青空文庫