・・・殊に甚太夫はそれがわかった日から、時々心頭に抑え難い怒と喜を感ぜずにはいられなかった。兵衛はすでに平太郎一人の敵ではなく、左近の敵でもあれば、求馬の敵でもあった。が、それよりも先にこの三年間、彼に幾多の艱難を嘗めさせた彼自身の怨敵であった。・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・あげた手が自ら垂れ、心頭にあった憎しみが自ら消えると、彼は、子供を抱いたまま、思わず往来に跪いて、爪を剥がしているクリストの足に、恐る恐る唇をふれようとした。が、もう遅い。クリストは、兵卒たちに追い立てられて、すでに五六歩彼の戸口を離れてい・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・ フレンチは怒が心頭より発した。非常なる侮辱をでも妻に加えられたように。「なんだってそんな事を言うのだ。そんな事を己に言って、それがなんになるものか。」肩を聳やかし、眉を高く額へ吊るし上げて、こう返事をした。「だって嫌なお役目で・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 尉官は怒気心頭を衝きて烈火のごとく、「何だ!」 とその言を再びせしめつ。お通は怯めず、臆する色なく、「はい。私に、私に、節操を守らねばなりませんという、そんな、義理はございませんから、出来さえすれば破ります!」 恐気も・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・職を求めて東京市中を三日さまよう内に、僅かな所持金もなくなり、本郷台町のとある薄汚いしもたやの軒に、神道研究の看板が掛っているのを見て、神道研究とはどういうものかわからなかったが、兎も角も転がり込んだ時は、書生にしてくれと、頼む泣声も出なか・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ 妊婦は、あとで「脳振盪」と、病床日誌に死の原因を書きつけられていた。 五 今度は、山のような落盤の上に下敷きとなっている十四人を掘り出さなきゃならなかった。洞窟の奥の真暗な横坑にふさぎ込められていた土田は、山・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・これはおげんがまだ若い娘の頃に、国学や神道に熱心な父親からの感化であった。お新は母親の機嫌の好いのを嬉しく思うという風で、婆やと三吉の顔を見比べて置いて、それから好きな煙草を引きよせていた。 その朝から三吉はおげんの側で楽しい暑中休暇を・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・きょうは朝から近頃に無く気持がせいせいしていて慾も得も無く、誰をも怨まず、誰をも愛さず、それこそ心頭滅却に似た恬淡の心境だったのですが、あなたに話かけているうちに、また心の端が麻のように乱れはじめて、あなたの澄んだ眼と、強い音声が、ともする・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・は、年々歳々、いよいよ色濃く、きみの眼に、きみの胸に滲透して行くにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。私は余生を送って行く。そうして、私がこののち永く生きながらえ、再度、短篇集・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・その短い文章は例の通りキビキビとして極めて要を得ているのは勿論であるが、その行文の間に卑怯な迫害者に対する苦々しさが滲透しているようである。彼に対する同情者は遠方から電報をよこしたりした。その中にはマクス・ラインハルトの名も交じっていた。・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫