・・・部屋に這入って見ると、机の上に鹿の角や花束が載っていて、その傍に脱して置いて出た古襟があった。窓を開けて、襟を外へ投げた。それから着物を脱いで横になった。しかし今一つ例の七ルウブルの一ダズンの中の古襟のあったことを思い出したから、すぐに起き・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・道が村山瀦水池のある丘陵の南麓へ向けて一直線に走っている。無論参謀本部の五万分一地図にはないほど新しい道路である。道傍の畑で芋を掘上げている農夫に聞いて、見失った青梅への道を拾い上げることが出来た。地図をあてにする人間が地図にない道に出逢っ・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・道路の傍には松の生い茂った崖が際限もなく続いていた。そしてその裾に深い叢があった。月見草がさいていた。「これから夏になると、それあ月がいいですぜ」桂三郎はそう言って叢のなかへ入って跪坐んだ。 で、私も青草の中へ踏みこんで、株に腰をお・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・そこには、洋服は洋服だが、椰子の木の生えたひろい畑の隅に、跣足で柄の長い鍬をもった林のお父さんと、傍に籠をもってしゃがんでいるお母さんとがならんでいた。「とても働いたんだネ、働いて金持になって、今のお店を作ったんだ」「フーム」「・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・そしてその文字は楷書であるが何となく大田南畝の筆らしく思われたので、傍の溜り水にハンケチを濡し、石の面に選挙侯補者の広告や何かの幾枚となく貼ってあるのを洗い落して見ると、案の定、蜀山人の筆で葛羅の井戸のいわれがしるされていた。 これは後・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ハントの家はカーライルの直近傍で、現にカーライルがこの家に引き移った晩尋ねて来たという事がカーライルの記録に書いてある。またハントがカーライルの細君にシェレーの塑像を贈ったという事も知れている。このほかにエリオットのおった家とロセッチの住ん・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・下手いのは病気の所為だと思い玉え。嘘だと思わば肱を突いて描いて見玉え」という註釈が加えてあるところをもって見ると、自分でもそう旨いとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東菊活けて置・・・ 夏目漱石 「子規の画」
・・・任じていないなどとは夢にも知らなかったので、同業者同社員たる余の言葉が、少しは君に慰藉を与えはしまいかという己惚があったんだが、文士たる事を恥ずという君の立場を考えて見ると、これは実際入らざる差し出た所為であったかも知れない。返事には端書が・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・私は上着のポケットの中で、ソーッとシーナイフを握って、傍に突っ立ってるならず者の様子を窺った。奴は矢っ張り私を見て居たが突然口を切った。「あそこへ行って見な。そしてお前の好きなようにしたがいいや、俺はな、ここらで見張っているからな」この・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・と、吉里は猪口を出したが、「小杯ッて面倒くさいね」と傍にあッた湯呑みと取り替え、「満々注いでおくれよ」「そろそろお株をお始めだね。大きい物じゃア毒だよ」「毒になッたッてかまやアしない。お酒が毒になッて死んじまッたら、いッそ苦労がなく・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫