・・・そのころはまだ純粋の武蔵野で、奥州街道はわずかに隅田川の辺を沿うてあッたので、なかなか通常の者でただいまの九段あたりの内地へ足を踏み込んだ人はなかッたが、そのすこし前の戦争の時にはこの高処へも陣が張られたと見えて、今この二人がその辺へ来かか・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 灸の母はそう客にいってお辞儀をした。「そうでしょうね。では、どうもいろいろ。」 客はまた旅へ出ていった。 灸は雨が降ると悲しかった。向うの山が雲の中に隠れてしまう。路の上には水が溜った。河は激しい音を立てて濁り出す。枯木は・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・ 三度目に灸が五号の部屋を覗くと、女の子は座蒲団を冠って頭を左右に振っていた。「お嬢ちゃん。」 灸は廊下の外から呼んでみた。「お這入りなさいな。」と、婦人はいった。 灸は部屋の中へ這入ると暫く明けた障子に手をかけて立って・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・夢を見ているように美しい、ハムレット太子の故郷、ヘルジンギヨオルから、スウェエデンの海岸まで、さっぱりした、住心地の好さそうな田舎家が、帯のように続いていて、それが田畑の緑に埋もれて、夢を見るように、海に覗いている。雨を催している日の空気は・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・最後にフィンクの目に映じて来たのは壁に沿うて据えてある長椅子である。そこでその手近な長椅子に探り寄った。そこへ腰を落ち着けて、途中で止めた眠を続けようと思うのである。やっと探り寄ってそこへ掛けようと思う時、丁度外を誰かが硝子提灯を持って通っ・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・しかしまたしては、「やっぱりそうなった方が、あいつのためには為合せかも知れない、どうせ病身なのだから」と思っては自分で自分を宥めて見るのである。そのうち寐入ってしまった。 ヴェロナ・ヴェッキアに着いた。汽車に揺られて、節々が痛む上に、半・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・いらっしゃれば大概二週間位は遊興をお尽しなさって、その間は、常に寂そりしてる市中が大そう賑になるんです。お帰りのあとはいつも火の消たようですが、この時の事は、村のものの一年中の話の種になって、あの時はドウであった、コウであったのと雑談が、始・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・の着物を着た住民があふれるほど住んでいる。そうして大きい、よく組織された国家の、すみずみまで行き届いた秩序があり、権力の強い支配者があり、豊富な産業がある。骨までも文化が徹っている。東海岸の国土、たとえばモザンビクの海岸においても状態は同じ・・・ 和辻哲郎 「アフリカの文化」
・・・そして戦いの大小深浅がまた人間の価値を左右する。 戦いの態度の純一は、複雑な内生よりも、単純な迷いのない生活にはるかに起こりやすい。それゆえただ純一のゆえに意を安めてはいけない。純一の態度に固執する者はともすれば内容を空疎にする。 ・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・九三年正月初めてニューヨークに現われた時には、ヒュネカアの語を藉れば She attracted a small band of admirable lunatics who saw her uncritically as a symbol・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫