・・・かねてここと見定めて置いた高架鉄道の線路に添うた高地に向って牛を引き出す手筈である。水深はなお腰に達しないくらいであるから、あえて困難というほどではない。 自分はまず黒白斑の牛と赤牛との二頭を牽出す。彼ら無心の毛族も何らか感ずるところあ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・おとよさんはつと立ってきて髪の香りの鼻をうつまでより添う。そして声を潜めて、「この間里から蜂屋柿を送ってくれたから省さんに二つ三つあげますよ」 おとよさんは冷たい髪の毛を省作の湯ぼてりの顔へふれる。省作も今は少し気が落ちついている。・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・裏の行きとまりに低い珊瑚樹の生垣、中ほどに形ばかりの枝折戸、枝折戸の外は三尺ばかりの流れに一枚板の小橋を渡して広い田圃を見晴らすのである。左右の隣家は椎森の中に萱屋根が見える。九時過ぎにはもう起きてるものも少なく、まことに静かに穏やかな夜だ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・其の身はかたく暮して身代にも不足なく子供は二人あったけれ共そうぞくの子は亀丸と云って十一になり姉は小鶴と云って十四であるがみめ形すぐれて国中ひょうばんのきりょうよしであった。不断も加賀染の模様のいいのなんか着せていろいろ身ぎれいにしてやるの・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・えらそうにして聨隊の門を出て来る士官はんを見ると、『お前らは何をしておるぞ』と云うてやりとうなる。されば云うて、自分も兵隊はんの抜けがら――世間に借金の申し訳でないことさえ保証がつくなら、今、直ぐにでも、首くくって死んでしまいたい。」「・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・「いいえ、先生のようなお気質では、つれ添う身になったら大抵想像がつきますもの」「よしんば、知れたッてかまいません」「先生はそれでもよろしかろうが、私どもがそばにいて、奥さんにすみません」「心配にゃア及びません、さ」景気よくは・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・人通りのない時、よしんば出来心にしろ、石でもほうり込まれ、怪我でもしたらつまらないと思い、起きあがって、窓の障子を填め、左右を少しあけておいて、再び枕の上に仰向けになった。 心が散乱していて一点に集まらないので、眼は開いたページの上に注・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・この向島名物の一つに数えられた大伽藍が松雲和尚の刻んだ捻華微笑の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽く灰となってしまったが、この門前の椿岳旧棲の梵雲庵もまた劫火に亡び玄関の正面の梵字の円い額も左右の柱の「能発一念喜愛心」及び「不断煩悩・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 疱瘡の色彩療法は医学上の根拠があるそうであるが、いつ頃からの風俗か知らぬが蒲団から何から何までが赤いずくめで、枕許には赤い木兎、赤い達磨を初め赤い翫具を列べ、疱瘡ッ子の読物として紅摺の絵本までが出板された。軽焼の袋もこれに因んで木兎や・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・と申しました。そうしてかくも有名なる本は何であるかというと無学者の書いた本であります。それでもしわれわれにジョン・バンヤンの精神がありますならば、すなわちわれわれが他人から聞いたつまらない説を伝えるのでなく、自分の拵った神学説を伝えるでなく・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
出典:青空文庫