・・・書中に云っている所から推すと、彼は老儒の学にも造詣のある、一かどの才子だったらしい。 破提宇子の流布本は、華頂山文庫の蔵本を、明治戊辰の頃、杞憂道人鵜飼徹定の序文と共に、出版したものである。が、そのほかにも異本がない訳ではない。現に予が・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・その婦人は三十何年間日本にいて、平安朝文学に関する造詣深く、平生日本人に対しては自由に雅語を駆使して応対したということである。しかし、その事はけっしてその婦人がよく日本を了解していたという証拠にはならぬではなかろうか。 詩は古典的で・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・この鵜飼三次というは学問の造詣も深く鑑識にも長じ、蓮杖などよりも率先して写真術を学んだほどの奇才で、一と頃町田久成の古物顧問となっていた。この拗者の江戸の通人が耳の垢取り道具を揃えて元禄の昔に立返って耳の垢取り商売を初めようというと、同じ拗・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それ故、文章を作らしたらカラ駄目で、とても硯友社の読者の靴の紐を結ぶにも足りなかったが、其磧以後の小説を一と通り漁り尽した私は硯友社諸君の器用な文才には敬服しても造詣の底は見え透いた気がして円朝の人情噺以上に動かされなかった。古人の作や一知・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・例えば二葉亭の如き当時の造詣はむしろ坪内君を凌ぐに足るほどであったが、ツマリ「文学士春の屋おぼろ」のために崛起したので、坪内君莫かっせばあるいは小説を書く気には一生ならなかったかも知れぬ。また『浮雲』の如き世論『書生気質』以上であるが、坪内・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・尤も日本の政治家に漢詩以外の文学の造詣あるものは殆んどなかったが、その頃政治家が頻りと小説を作る流行があって、学堂もまた『新日本』という小説染みたものを著わした。余り評判にもならなかったが、那翁三世が幕府の遣使栗本に兵力を貸そうと提議した顛・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・し、純粋小説とは純粋になればなるほど形式が不純になり、複雑になり、構成は何重にも織り重って遠近法は無視され、登場人物と作者の距離は、映画のカメラアングルのように動いて、眼と手は互いに裏切り、一元描写や造形美術的な秩序からますます遠ざかるもの・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・奈良に住むと、小説が書けなくなるというのも、造型美術品から受ける何ともいいようのない単純な感動が、小説の筆を屈服させてしまうからであろう。だから、人間の可能性を描くというような努力をむなしいものと思い、小説形式の可能性を追究して、あくまで不・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・動物学に於ける自分の造詣の浅薄さが、いかん無く暴露せられたという事が、いかにも心外でならなかったらしく、私がそれから一つきほど経って阿佐ヶ谷の先生のお宅へ立寄ってみたら、先生は已に一ぱしの動物学者になりすましていた。何事に於いても負けたくな・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・すべきか、全編をいくつの場面に分割すべきか、一つ一つの場面にいかなる造型的視覚的素材を用ゆべきかを考えなければならない。すなわち物語を「モンタージュ画像」の言葉に翻訳しなければならない。この際における創作的過程は映画監督のそれとかなりまで類・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
出典:青空文庫