・・・しかしておかあさんがむすめを抱かないほうの手を延ばしてその枝をつかむと、松はみずから立ちなおって、うれいにしずむおかあさんを沢の中から救い上げてくれました。 その時霧はふきはらわれて、太陽はまた照り始めました。しかして二人は第四の門に近・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・五十円を故郷の姉から、これが最後だと言って、やっと送って戴き、私は学生鞄に着更の浴衣やらシャツやらを詰め込み、それを持ってふらと、下宿を立ち出で、そのまま汽車に乗りこめばよかったものを、方角を間違え、馴染みのおでんやにとびこみました。其処に・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・けれど新鮮な空気がある、日の光がある、雲がある、山がある、――すさまじい声が急に耳に入ったので、立ち留まってかれはそっちを見た。さっきの汽車がまだあそこにいる。釜のない煙筒のない長い汽車を、支那苦力が幾百人となく寄ってたかって、ちょうど蟻が・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 石炭がはじけて凄まじい爆音が聞えると、黒い煙がひとしきり渦巻いて立ち昇る。 物恐ろしい戦場が現われる。鍋の物のいりつくような音を立てて飛んで来る砲弾が眼の前に破裂する。白い煙の上にけし飛ぶ枯木の黒い影が見える。 戦場が消えると・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・に付けて「身ほそき太刀のそるかたを見よ」とする。この付け方を「打てば響くごとし」と評してあるが、試みに映画の一場面にこの二つのショットを継起せしめたと想像すれば、その観客に与える印象はおそらく打てば響くがごとくであるに相違ない。これをたとえ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・そうしてまた、あれだけ大勢があれだけ多数の大刀を振廻わして、そうして誰も怪我をしないようにするという芸術はおそらく世界にユニークなものであろう。そう思って見ているとあれは実に面白い見ものである。全く感嘆に値いするものである。 土佐の田舎・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・道太は立ちがけに、わざと繰り返した。 兄のところへ行くと、姉が悦び迎えて、「じつはお出でを願おうかと思っておりました。看護婦がちょっと粗匆をしましたので、あれほど信用しておいでたのに、たいそう腹を立てて薬もいっさい飲まんと言っておい・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・今日の我らが人情の眼から見れば、松陰はもとより醇乎として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、五十年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、畢竟今日の日本を造り出さんが・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 赤い襷をかけた女工たちは、甲斐甲斐しく脱ぎ棄てられた労働服を、ポカポカ湯気の立ち罩めている桶の中へ突っ込んでいる。「おい止せよ、女の眼前で、そんなの脱がすのは止せよ」「止せたって……、おいお前たち、女の人は、一寸向うを向いてて・・・ 徳永直 「眼」
・・・ ここにおいて、或る人は、帝国ホテルの西洋料理よりもむしろ露店の立ち喰いにトンカツのをかぎたいといった。露店で食う豚の肉の油揚げは、既に西洋趣味を脱却して、しかも従来の天麩羅と抵触する事なく、更に別種の新しきものになり得ているからだ。カ・・・ 永井荷風 「銀座」
出典:青空文庫