・・・あとでこの温泉には宿屋はたった一軒しかないことを知った。 右肩下りの背中のあとについて、谷ぞいの小径を歩きだした。 しかし、ものの二十間も行かぬうちに、案内すると見せかけた客引きは、押していた自転車に飛び乗って、「失礼しやして、・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・でも嬉やたった一ヵ所窓のように枝が透いて遠く低地を見下される所がある。あの低地には慥か小川があって戦争前に其水を飲だ筈。そう云えばソレ彼処に橋代に架した大きな砂岩石の板石も見える。多分是を渡るであろう。もう話声も聞えぬ。何国の語で話ていたか・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・伯母はもう一汽車前の汽車で来ていて、茶の間で和尚さんと茶を飲んでいた。たった一人残った父の姉なのだが、伯母は二カ月ほど前博覧会見物に上京して、父のどこやら元気の衰えたのを気にしながらも、こう遠くに離れてはお互いに何事があっても往ったり来たり・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・その男はしばらくその夜景に眺め耽っていたが、彼はふと闇のなかにたった一つ開け放された窓を見つける。その部屋のなかには白い布のような塊りが明るい燈火に照らし出されていて、なにか白い煙みたようなものがそこから細くまっすぐに立ち騰っている。そして・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・両親に早く死に別れて、たった二人の姉弟ですから、互いに力にしていたのが、今では別れ別れになって、生き死にさえわからんようになりました。それに、わたしも近いうち朝鮮につれて行かれるのだから、もうこの世で会うことができるかできないかわかりません・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・ 対岸には、搾取のない生産と、新しい社会主義社会の建設と、労働者が、自分たちのための労働を、行いうる地球上たった一つのプロレタリアートの国があった。赤い布で髪をしばった若い女が、男のような活溌な足どりで歩いている。ポチカレオへ赤い貨車が・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・その時やや隔たった圃の中からまた起った歌の声は、わたしぁ桑摘む主ぁまんせ、春蚕上簇れば二人着る。という文句を追いかけるように二人の耳へ送った。それは疑いも無くお近の声で、わざと二人に聞かせるつもりで唱ったらしかった。・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 母親はたった一言も聞き洩さないように聞いていた。――それから二人は人前もはゞからずに泣出してしまった。 * それから半年程して、救援会の女の人が、田舎から鉛筆書きの手紙を受取った――それはお安が書いた手紙だった・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・知らない旅客、荷を負った商人、草鞋掛に紋附羽織を着た男などが此方を覗き込んでは日のあたった往来を通り過ぎた。「広岡先生が上田から御通いなすった時分から見やすと、御蔭で吾家でもいくらか広くいたしやした」 こう内儀さんも働きながら言った・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
一 私は今ここに自分の最近両三年にわたった芸術論を総括し、思想に一段落をつけようとするにあたって、これに人生観論を裏づけする必要を感じた。 けれども人生観論とは畢竟何であろう。人生の中枢意義は言うまでもなく実行である。人生観・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
出典:青空文庫