・・・見返ると、あの可厭々々学生が、何時か私達の傍近くに立って居たではありませんか。 若子さんの御兄さんは、じろりと彼の学生の顔を御覧でした。 若子さんは小さな声で、『兄さん、彼女の方は随分ですわねえ。』『女だから可いさ。』と、御兄さ・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・是等は都て家風に存することにして、稚き子供の父たる家の主人が不行跡にて、内に妾を飼い外に花柳に戯るゝなどの乱暴にては、如何に子供を教訓せんとするも、婬猥不潔の手本を近く我が家の内に見聞するが故に、千言万語の教訓は水泡に帰す可きのみ。又男女席・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・初めは遠く、次第に近く、終にはその音暖かに充ち渡りて、壁隣の部屋より聞ゆる如音楽だな。何だか不思議に心に沁み入るような調べだ。あの男が下らぬ事を饒舌ったので、己まで気が狂ったのでもあるまい。人の手で弾くヴァイオリンからこんな音の出るのを聞い・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・路傍の茶店を一軒見つけ出して怪しい昼飯を済まして、それから奥へ進んで行く所がだんだん山が近くなるほど村も淋しくなる、心細い様ではあるがまたなつかしい心持もした。山路にかかって来ると路は思いの外によい路で、あまり林などはないから麓村などを見下・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ちょっと向うを見たら何か黒いものが波から抜け出て小さな弧を描いてまた波へはいったのでどうしたのかと思ってみていたらまたすぐ近くにも出た。それからあっちにもこっちにも出た。そこでぼくはみんなに知らせた。何だか手を気を付けの姿勢で水を出たり入っ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・「諸君、手っ取り早く云うならば、岩頸というのは、地殻から一寸頸を出した太い岩石の棒である。その頸がすなわち一つの山である。ええ。一つの山である。ふん。どうしてそんな変なものができたというなら、そいつは蓋し簡単だ。ええ、ここに一つの火山が・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・今や地殻までが裁判長の神聖な裁断に服するのだ。」 二番目の判事が云いました。「実にペンネンネンネンネン・ネネム裁判長は超怪である。私はニイチャの哲学が恐らくは裁判長から暗示を受けているものであることを主張する。」 みんなが一度に・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・―― 村の在郷軍人で、消防の小頭をし、同時に青年団の役員をつとめている仙二が心を悩ましていたのは、お園のことや、近く迫っている役員改選期のことではなかった。沢や婆さんのことであった。 何故、この白髪蓬々の、膝からじかに大きな瞼に袋の・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・山、氷河、および地殻の歴史を語られるにつれて、私たちの心によみがえるのはチンダルの「アルプスの旅より」「アルプスの氷河」などである。どちらも岩波文庫に訳されているのは知られるとおりである。アイルランド生れの物理学者であったジョン・チンダルは・・・ 宮本百合子 「科学の常識のため」
・・・子供のぱっちりした体をそっと抓みよせて見ても、このように指先に皮膚と筋肉との境は知覚されないだろう。「なるほどね――私なんぞひどい」とYが感服した。「年のせいもあるわ」 三人が抓みっこをしていたテーブルに、夕刊が一枚あった。・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
出典:青空文庫