・・・ワグラムへ出て迷う、日本クラブ鯛チリ 宮本百合子 「「道標」創作メモ」
・・・正月で、自分はチリメンの袂のある被布をきせられていた。母が急に縁側へ出て槇の木の下に霜柱のたっている庭へ向い「バンザーイ! バンザーイ!」と両手を高く頭の上にあげ、叫んだ。声は鋭く、顔は蒼く、涙をこぼしている。自分はびっくりして泣きたくなり・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・ 追いかけ追いかけの貧から逃れられない哀れな老爺が、夏の八月、テラテラとした太陽に背を焼かれながら小石のまじったやせた畑地をカチリカチリと耕して居る。其のやせた細腕が疲れるとどこともかまわず身をなげして骨だらけの胸を拡げたり、せばめたり・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・非番の老近侍は茶の上着を着て白と黒の縞のキッチリのズボン白い飾りのついた短靴をはいて飾りのついた剣をつるす。ふちのない上着と同色の帽子についた王家の紋章が動く毎に光る。第二の女の声は陽気で、第一第三の女はふくみ声でゆっくりと口をきく・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・「八つ時分三味線屋からことを出し火の手がちりてとんだ大火事」と云う落首があった。浜町も蠣殻町も風下で、火の手は三つに分かれて焼けて来るのを見て、神戸の内は人出も多いからと云って、九郎右衛門は蠣殻町へ飛んで帰った。 山本の内では九郎右衛門・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・小倉の雪の夜に、戸の外の静かな時、その伝便の鈴の音がちりん、ちりん、ちりん、ちりんと急調に聞えるのである。 それから優しい女の声で「かりかあかりか、どっこいさのさ」と、節を附けて呼んで通るのが聞える。植物採集に持って行くような、ブリキの・・・ 森鴎外 「独身」
・・・暫くして座敷へ這入って、南アフリカの大きい地図をひろげて、この頃戦争が起りそうになっている Transvaal の地理を調べている。こんな風で一日は暮れた。 三四日立ってからの事である。もう役所は午引になっている。石田は馬に蹄鉄を打たせ・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・女房は銚子を忙しげに受け取って、女中に「用があればベルを鳴らすよ、ちりんちりんを鳴らすよ、あっちへ行ってお出」と云って、障子を締めた。 新聞記者は詞を続いだ。「それは好いが、先生自分で鞭を持って、ひゅあひゅあしょあしょあとかなんとか云っ・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・ただに食器に散り蓮華があるのみでない。蓮根は日本人の食う野菜のうちのかなりに多い部分を占めている。 というようなことは、私はかねがね承知していたのであるが、しかし巨椋池のまん中で、咲きそろっている蓮の花をながめたときには、私は心の底から・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
・・・年によると、この相違が非常に強く現われ、早い樹はもう紅葉が済んで散りかけているのに、遅い樹はまだ半ば緑葉のままに残っている、というようなこともあった。そういう年は紅葉の色も何となく映えない。しかし気候の具合で、三年に一度ぐらいは、遅速があま・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫