・・・筆を擱いてたまたま窓外を見れば半庭の斜陽に、熟したる梔子燃るが如く、人の来って摘むのを待っている……。大正十二年癸亥十一月稿 永井荷風 「十日の菊」
・・・児戯に積む小石の塔を蹴返す時の如くに崩れる。崩れたるあとのわれに帰りて見れば、ランスロットはあらぬ。気を狂いてカメロットの遠きに走れる人の、わが傍にあるべき所謂はなし。離るるとも、誓さえ渝らずば、千里を繋ぐ牽き綱もあろう。ランスロットとわれ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・かく完全な模型を標榜して、それに達し得る念力をもって修養の功を積むべく余儀なくされたのが昔の徳育であります。もう少し細かく申すはずですが、略してまずそのくらいにして次に移ります。 さてこういう風の倫理観や徳育がどんな影響を個人に与えどん・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・自分の病気は日を積むにしたがってしだいに快方に向った。しまいには上草履を穿いて広い廊下をあちこち散歩し始めた。その時ふとした事から、偶然ある附添の看護婦と口を利くようになった。暖かい日の午過食後の運動がてら水仙の水を易えてやろうと思って洗面・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・碧り積む水が肌に沁む寒き色の中に、この女の影を倒しまにひたす。投げ出したる足の、長き裳に隠くるる末まで明かに写る。水は元より動かぬ、女も動かねば影も動かぬ。只弓を擦る右の手が糸に沿うてゆるく揺く。頭を纏う、糸に貫いた真珠の飾りが、湛然たる水・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・幾里の登り阪を草鞋のあら緒にくわれて見知らぬ順礼の介抱に他生の縁を感じ馬子に叱られ駕籠舁に嘲られながらぶらりぶらりと急がぬ旅路に白雲を踏み草花を摘む。実にやもののあわれはこれよりぞ知るべき。はた十銭のはたごに六部道者と合い宿の寝言は熟眠を驚・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・この土筆は勿論煮てくうのであるから、東京辺の嫁菜摘みも同じような趣きではあるが、実際はそれにもまして、土筆を摘むという事その事が非常に愉快を感ずることになって居る。それで人々が争うて土筆を取りに出掛けるので郊外一、二里の所には土筆は余り沢山・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・燃えるようなる、二つの眼が光ってわれを見詰むるじゃ。どうじゃ、声さえ発とうにも、咽喉が狂うて音が出ぬじゃ。これが則ち利爪深くその身に入り、諸の小禽痛苦又声を発するなしの意なのじゃぞ。されどもこれは、取らるる鳥より見たるものじゃ。捕る此方より・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・ 一太は立ちどまって、善さんが南京袋をかついで来ては荷車に積むのや、モーターで動いている杵を眺めた。「今日はどこだい」「池の端」「ふーむ……やっこらせ! と、……洒落てやがんな、綺麗な姐さんがうんといたろう?」「ああいた・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・いつかわが手から落ちるだろうと思って摘む花を、誰が一々やかましく吟味して眺め、研究して掴むだろう。そういう、とことんのところで消極的なものが包蔵されている心理で、良い恋愛の対象にめぐり会えまいことは一応わかることだし、その程度の対象では生涯・・・ 宮本百合子 「成長意慾としての恋愛」
出典:青空文庫