・・・ 然し今の彼の苦悩は自ら解く事の出来ない惑である、「何故梅子はあの晩泣いていたろう。自分が先生に呼ばれてその居間に入る時、梅子は何故あんな相貌をして涙を流して自分を見たろう。自分が先生に向て自分の希望を明言した時に梅子は隣室で聞いていた・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ 徳の姿を見ると二三日前の徳の言葉を老人は思い出した。 徳の説く所もまんざら無理ではない。道理はあるが、あの徳の言い草が本気でない。真実彼奴はそう信じて言うわけじゃない。あれは当世流の理屈で、だれも言うたと、言わば口前だ。徳の本心は・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・学業に勉励せぬ、イデアリストでない学生に恋愛を説く如きは私には何の興味もないことである。学生の常なる姿勢は一に勉強、二に勉強、三に勉強でなくてはならぬ。なるほど恋愛はこの姿勢を破らせようとするかもしれぬ。だがその姿勢が悩みのために、支えんと・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・「予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二の歳より此の願を立つ」 日蓮の出家求道の発足は認識への要求であった。彼の胸中にわだかまる疑問を解くにた・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・仏陀出世の本懐は法華経を説くにあった。「無量義経」によれば、「四十余ニハ未だ真実ヲ顕ハサズ」とある。この仏陀の金言を無視するは許されぬ。「法華経方便品」によれば、「十方仏上ノ中ニハ、唯一乗ノ法ノミアリテ、二モ無ク亦三モ無シ」とある。 仏・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・彼の胸中にわだかまる疑問を解くにたる明らかなる知恵がほしかったのだ。それでは彼の胸裡の疑団とはどんなものであったか。 第一には何故正しく、名分あるものが落魄して、不義にして、名正しからざるものが栄えて権をとるかということであった。・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ そこへ行くと、無産政党の演説会は、たいていどの演説会でも、既成政党を攻撃はするが、その外、自分の党は何をするか、を必ず説く。そこは、徹頭徹尾、攻撃に終始する既成政党の演説会に比して、よほど整い、つじつまが会っている。 しかし、演説・・・ 黒島伝治 「選挙漫談」
・・・「誰れぞに問われたら、市へ奉公にやったと云うとくがえいぜ。」「はあ。」「ようく、気をつけにゃならんぜ……」と叔父は念をおした。そして、立って豚小屋を見に行った。「この牝はずか/\肥えるじゃないかいや。」 親豚は、一カ月程・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・途端に罪の無い笑は二人の面に溢れて、そして娘の歩は少し疾くなり、源三の歩は大に遅くなった。で、やがて娘は路――路といっても人の足の踏む分だけを残して両方からは小草が埋めている糸筋ほどの路へ出て、その狭い路を源三と一緒に仲好く肩を駢べて去った・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・すると源三は何を感じたか滝のごとくに涙を墜して、ついには啜り泣して止まなかったが、泣いて泣いて泣き尽した果に竜鍾と立上って、背中に付けていた大な団飯を抛り捨ててしまって、吾家を指して立帰った。そして自分の出来るだけ忠実に働いて、叔父が我が挙・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
出典:青空文庫