・・・「おっつあんどうかしやしめえ」 対手は聞いた。太十は少時黙って居たが「いっそのこと殺しっちまあべと思ってよ」 ぶっきら棒にいった。「何よ」と対手はいった。然しそれが余り突然なので対手はいつものように揶揄って見たくなっ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「俺の家だと思えばどうか知らんが、てんで俺の家だと思いたくないんだからね。そりゃ名前だけは主人に違いないさ。だから門口にも僕の名刺だけは張り付けて置いたがね。七円五十銭の家賃の主人なんざあ、主人にしたところが見事な主人じゃない。主人中の・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・自分の経験もやはりふとした場所で意外な手紙の発見をしたということにはなるが、それが導火線になって、思いがけなくある実際上の効果を収めえたのであるから、手紙そのものにはそれほど興味がない。少なくとも、小説的な情調のもとに、それを読みえなかった・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・観察者である以上は相手と同化する事はほとんど望めない。相手を研究し相手を知るというのは離れて知るの意でその物になりすましてこれを体得するのとは全く趣が違う。幾ら科学者が綿密に自然を研究したって、必竟ずるに自然は元の自然で自分も元の自分で、け・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・けれどもその反撥の裏面には同化の芽を含んでいる。反撥すると云う事がすでに対者を知らねばできない事になる。対者を知るためには一種の研究をしなければならない。その研究をして反撥し合っているうちに対者の立場やら長所やらを自然と認めなければならない・・・ 夏目漱石 「文壇の趨勢」
・・・たしかに今、私の頭脳はどうかしている。自分は幻影を見ているのだ。さもなければ狂気したのだ。私自身の宇宙が、意識のバランスを失って崩壊したのだ。 私は自分が怖くなった。或る恐ろしい最後の破滅が、すぐ近い所まで、自分に迫って来るのを強く感じ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ もうこれ以上飲めないと思って、バーを切り上げて来たんだから、銀銅貨取り混ぜて七八十銭もあっただろう。「うん、余る位だ。ホラ電車賃だ」 そこで私は、十銭銀貨一つだけ残して、すっかり捲き上げられた。「どうだい、行くかい」蛞蝓は・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 二十三本の発破が、岩盤の底に詰められて、蕨のように導火線が、雪の中から曲った肩を突き出していた。 五人の坑夫、――秋山も小林も混って――は、各々口にバットを喞えて、見張からの合図を待っていた。 何十年も、殆んど毎日のように、導・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・「ああやッと出来ましたよ」と、小万は燗瓶を鉄瓶から出しながら、「そんなわけなんだからね。いいかね、お熊どん。私がまた後でよく言うからね、今晩はわがままを言わせておいておくれ」「どうかねえ。お頼み申しますよ」と、お熊は唐紙越しに、「花・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・福の神の髻を攫んで放さないと云う為事だ。どうかすると、おめえそんなのを一週間に一度ずつこっそりやるのかも知れねえが。」一本腕はこう云って、顔をくしゃくしゃにして笑った。 爺いさんは真面目に相手の顔を見返して、腰を屈めて近寄った。そして囁・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
出典:青空文庫