・・・ 人畜を挙げて避難する場合に臨んでも、なお濡るるを恐れておった卑怯者も、一度溝にはまって全身水に漬っては戦士が傷ついて血を見たにも等しいものか、ここに始めて精神の興奮絶頂に達し猛然たる勇気は四肢の節々に振動した。二頭の乳牛を両腕の下に引・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・お安く参りましょう、どうかお乗りなして」という。力のない細い声で、如何にも淋しい風をした車屋である。予はいやな気持がしたので、耳も貸さずに待合室へ廻った。明日帰る時の用意に発車時間を見て置くのと、直江津なる友人へ急用の端書を出すためである。・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・どうせ、無事に帰るつもりは無いて、細君を離縁する云い出し、自分の云うことを承知せんなら、露助と見て血祭りにする云うて、剣を抜いて追いまわしたんや。」 こう云って、友人は鳥渡僕から目を離して、猪口に手をかけた。僕も一杯かさねてから、「・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 吉弥はすぐ乗り気になって、いよいよそうと定まれば、知り合いの待合や芸者屋に披露して引き幕を贈ってもらわなければならないとか、披露にまわる衣服にこれこれかかるとか、かの女も寝ころびながら、いろいろの注文をならべていたが、僕は、その時にな・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ まず海苔が出て、お君がちょっと酌をして立った跡で、ちびりちびり飲んでいると二、三品は揃って、そこへお貞が相手に出て来た。「お独りではお寂しかろ、婆々アでもお相手致しましょう」「結構です、まア一杯」と、僕は盃をさした。 婆さ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・この向島名物の一つに数えられた大伽藍が松雲和尚の刻んだ捻華微笑の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽く灰となってしまったが、この門前の椿岳旧棲の梵雲庵もまた劫火に亡び玄関の正面の梵字の円い額も左右の柱の「能発一念喜愛心」及び「不断煩悩・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ダアクの操り人形然と妙な内鰐の足どりでシャナリシャナリと蓮歩を運ぶものもあったが、中には今よりもハイカラな風をして、その頃流行った横乗りで夫婦轡を駢べて行くものもあった。このエキゾチックな貴族臭い雰囲気に浸りながら霞ガ関を下りると、その頃練・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・けれども歴史的の研究を凝らし、広く材料を集めて成った本でありまして、実にカーライルが生涯の血を絞って書いた本であります。それで何十年ですか忘れましたが、何十年かかかってようやく自分の望みのとおりの本が書けた。それからしてその本が原稿になって・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・跡には草原の中に赤い泉が涌き出したように、血を流して、女学生の体が横わっている。 女房は走れるだけ走って、草臥れ切って草原のはずれの草の上に倒れた。余り駈けたので、体中の脈がぴんぴん打っている。そして耳には異様な囁きが聞える。「今血が出・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・皇子は、待てども待てども、姫君が見えないので、腹をたてて、ひとつには心配をして、幾人かの勇士を従えて、自らシルクハットをかぶり、燕尾服を着て、黒塗りの馬車に乗り、姫から贈られた黒馬にそれを引かせて、お姫さまの御殿のある城下を指して駆けてきた・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
出典:青空文庫