・・・奉天から北京へ来る途中、寝台車の南京虫に螫された時のほかはいつも微笑を浮かべている。しかももう今は南京虫に二度と螫される心配はない。それは××胡同の社宅の居間に蝙蝠印の除虫菊が二缶、ちゃんと具えつけてあるからである。 わたしは半三郎の家・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・彼らはいずれも、古手拭と煙草道具と背負い繩とを腰にぶら下げていた。短い日が存分西に廻って、彼の周囲には、荒くれた北海道の山の中の匂いだけがただよっていた。 監督を先頭に、父から彼、彼から小作人たちが一列になって、鉄道線路を黙りながら歩い・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ はじめは押入と、しかしそれにしては居周囲が広く、破れてはいるが、筵か、畳か敷いてもあり、心持四畳半、五畳、六畳ばかりもありそうな。手入をしない囲なぞの荒れたのを、そのまま押入に遣っているのであろう、身を忍ぶのは誂えたようであるが。・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・そンかわりにゃあまた、いいつけられたことはハイ一寸もずらさねえだ。何でも戸外へ出すことはなりましねえ。腕ずくでも逢わせねえから、そう思ってくれさっしゃい。」 お通はわっと泣出しぬ。 伝内は眉を顰めて、「あれ、泣かあ。いつもねえこ・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・鵜島まではなん里くらいありますなど話しかけてみたが、娘はただ、ハイハイというばかり、声を聞きながら形は見えないような心持ちだ。段ばしごの下から、「舟がきてるからお客さまに申しあげておくれ」というのは、主人らしい人の声である。飯がすむ・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
段ばしごがギチギチ音がする。まもなくふすまがあく。茶盆をふすまの片辺へおいて、すこぶるていねいにおじぎをした女は宿の娘らしい。霜枯れのしずかなこのごろ、空もしぐれもようで湖水の水はいよいよおちついて見える。しばらく客という・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・「おとよさん、おとッつさんが呼んでいますよ」 枝折戸の近くまで来てお千代は呼ぶ。「ハイ」 おとよは押し出したような声でようやくのこと返辞をした。十日ばかり以前から今日あることは判っているから充分の覚悟はしているものの、今さら・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「そうどすか?」と、細君は亭主の方へ顔を向けた。「まだ女房にしかられる様な阿房やない。」「そやさかい、岩田はんに頼んどるのやおまへんか?」「女郎どもは、まア、あッちゃへ行とれ。」「はい、はい。」 細君は笑いながら、か・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・「ラオの すげかえやが きたから、この きせるを たのんで おくれ。」と、おばあさんが おっしゃいました。「はい。」と いって、きよは うけとって そとへ でました。 しばらく して、きよは かえって きました。「い・・・ 小川未明 「秋が きました」
・・・あれはいつだったっけ、何でも俺が船へ乗り込む二三日前だった、お前のところへ暇乞いに行ったら、お前の父が恐ろしく景気つけてくれて、そら、白痘痕のある何とかいう清元の師匠が来るやら、夜一夜大騒ぎをやらかしたあげく、父がしまいにステテコを踊り出し・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫