・・・頭が禿げるまで忘れぬほどに思い込んだことも、一ツ二ツと轄が脱けたり輪が脱れたりして車が亡くなって行くように、だんだん消ゆるに近づくというは、はて恐ろしい月日の力だ。身にも替えまいとまでに慕ったり、浮世を憂いとまでに迷ったり、無い縁は是非もな・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・「それは、としとってから禿げるのは当りまえの事だが。」先生は、浮かぬ顔をしてそう言った。先生も、ずいぶん見事に禿げておられた。 数日後、大隅忠太郎君は折鞄一つかかえて、三鷹の私の陋屋の玄関に、のっそりと現われた。お嫁さんを迎えに・・・ 太宰治 「佳日」
・・・十年ほど前にある人から私の頭の頂上に毛の薄くなった事を注意されて、いまに禿げるだろうと、予言された事があるが、どうしたのかまだ禿頭と名の付くほどには進行しない。禿頭は父親から男の子に遺伝する性質だという説があるが、それがもし本当だとすると、・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・冥想の皮が剥げるごとく感ぜらるる。階段を降り切って最下の欄干に倚って通りを眺めた時にはついに依然たる一個の俗人となり了ってしまった。案内者は平気な顔をして厨を御覧なさいという。厨は往来よりも下にある。今余が立ちつつある所よりまた五六段の階を・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
出典:青空文庫