・・・われこれを思いし時、心の冷え渡るごとき恐ろしきある者を感じぬ、貴嬢はただこの二人ただ自殺を謀りしとのみのたもうか、げに二郎と十蔵とは自殺を謀りしなるべきか。あらず、いかで自殺なる二字をもってこの二人の怪しき挙動の秘密を解き得べきぞ、貴嬢がい・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・やっと歩きだした二人目の子供が、まだよく草履をはかないので裸足で冷えないように、小さい靴足袋を買ってやらねばならない。一カ月も前から考えていることも思い出した。一文なしで、解雇になってはどうすることも出来なかった。 彼は、前にも二三度、・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・ 唇をやられた男は、冷えた練乳と、ゆるい七分粥を火でも呑むように、おず/\口を動かさずに、食道へ流しこんでいた。皆と年は同じに違いないが、十八歳位に見える男だ。その男はいつも、大腿骨を弾丸にうちぬかれた者よりも、むしろ、ひどく堪え難そう・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 龍介はズボンに手をつっこみ、小さい冷えきった室の中を歩いた。彼はこういう所に一人で来たこれが初めだった。来たい意思はいつでも持った。夜床の中で眼をさますと、何かの拍子から「いても立ってもいられない」衝動を感ずることがあった。そうすると・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・髭の男に扮している立派な役者は、わかいお弟子の差し出す鏡に向い、その髭の先にめしつぶをくっつけようとあせるのだが、めしつぶは冷え切っていて粘着力を失っているので、なかなか附かない。みんな、困った。はりきりの監督助手は、そのときすすみ出て、・・・ 太宰治 「花燭」
・・・雪が消えても、やっぱり夕方になると、冷えますね。お邪魔しました。風吹き起り、砂ほこりが立つ。春の枯葉も庭の隅で舞う。しづ、上手より退場。おしんこか何かとどけてくれると言ったが、あの工合いじゃあてにならん。さあ、め・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・赤熱した岩片が落下して表面は急激に冷えるが内部は急には冷えない、それが徐々に冷える間は、岩質中に含まれたガス体が外部の圧力の減った結果として次第に泡沫となって遊離して来る、従って内部が次第に海綿状に粗鬆になると同時に膨張して外側の固結した皮・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・ 子供の時分の正月の記憶で身に沁みた寒さに関するものは、着馴れぬ絹物の妙につめたい手ざわりと、穿きなれぬまちの高い袴に釣上げられた裾の冷え心地であった。その高い襠で擦れた内股にひびが切れて、風呂に入るとこれにひどくしみて痛むのもつらかっ・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・学校へ行く時、母上が襟巻をなさいとて、箪笥の曳出しを引開けた。冷えた広い座敷の空気に、樟脳の匂が身に浸渡るように匂った。けれども午過には日の光が暖く、私は乳母や母上と共に縁側の日向に出て見た時、狐捜しの大騒ぎのあった時分とは、庭の様子が別世・・・ 永井荷風 「狐」
・・・手も足も冷え尽したる後、ありとある美しき衣にわれを着飾り給え。隙間なく黒き布しき詰めたる小船の中にわれを載せ給え。山に野に白き薔薇、白き百合を採り尽して舟に投げ入れ給え。――舟は流し給え」 かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開く期・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫