・・・ 惟うに、太平の世の国の守が、隠れて民間に微行するのは、政を聞く時より、どんなにか得意であろう。落人のそれならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさえ、我名を呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、その都度、ハッと隠れ忍んで、・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・尾崎は重なる逐客の一人として、伯爵後藤の馬車を駆りて先輩知友に暇乞いしに廻ったが、尾行の警吏が俥を飛ばして追尾し来るを尻目に掛けつつ「我は既に大臣となれり」と傲語したのは最も痛快なる幕切れとして当時の青年に歓呼された。尾崎はその時学堂を愕堂・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・「私を尾行しているのんですわ。いつもああなんです。なにしろ、嫉妬深い男ですよって」 女はにこりともせずにそう言うと、ぎろりと眇眼をあげて穴のあくほど私を見凝めた。 私は女より一足先に宿に帰り、湯殿へ行った。すると、いつの間に帰っ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・三日間尾行するよりほかに物一つ言えなかった弱気のために自嘲していた豹一の自尊心は、紀代子からそんな態度に出られて、本来の面目を取り戻した。ここでおどおどしては俺もお終いだと思うと、眼の前がカッと血色に燃えて、「用って何もありません。ただ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ そういった途端、うしろからボソボソ尾行て来た健坊がいきなり駈けだして、安子の傍を見向きもせずに通り抜け、物凄い勢いで去って行った。兵児帯が解けていた。安子はそのうしろ姿を見送りながら、「いやな奴」と左の肩をゆり上げた。 ところ・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・陶器のように白い皮膚を翳らせている多いうぶ毛。鼻孔のまわりの垢。「彼女はきっと病床から脱け出して来たものに相違ない」 少女の面を絶えず漣さざなみのように起こっては消える微笑を眺めながら堯はそう思った。彼女が鼻をかむようにして拭きとっ・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ 松木は、息切れがして、暫らくものを云うことが出来なかった。鼻孔から、喉頭が、マラソン競走をしたあとのように、乾燥し、硬ばりついている。彼は唾液を出して、のどを湿そうとしたが、その唾液が出てきなかった。雪の上に倒れて休みたかった。「・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・僕の友人は、労働歌を歌っていて、ただ、それだけで一年間尾行につき纒われた。 ちょっと、郷里の家へ帰っているともう、スパイが、嗅ぎつけて、家のそばに張りこんでいる。出て歩けば尾行がついて来る。それが結婚のことで帰っていてもそうなのである。・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・寒気はいっそうひどかった。鼻孔に吸いこまれる凍った空気は、寒いという感覚を通り越して痛かった。 十五分ばかりして、橇はひっかえしてきた。 呉は、左の腕を捩じ曲げるように、顎の下に、も一方の手で抱き上げ、額にいっぱい小皺をよせてはいっ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・そして脂肪や、焦げパンや、腐った漬物の悪臭が、また新しく皆の鼻孔を刺戟した。「二度診断を受けたことがあるんだが。」そう云って木村は咳をした。「二度とも一週間の練兵休で、すぐまた、勤務につかせられたよ。」「十分念を入れてみて貰うたらど・・・ 黒島伝治 「橇」
出典:青空文庫