・・・勢いよく吹くのは野分の横風……変則の匂い嚢……血腥い。 はや下ななつさがりだろう、日は函根の山の端に近寄ッて儀式とおり茜色の光線を吐き始めると末野はすこしずつ薄樺の隈を加えて、遠山も、毒でも飲んだかだんだんと紫になり、原の果てには夕暮の・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・さすがの美人が憂に沈でる有様、白そうびが露に悩むとでもいいそうな風情を殿がフト御覧になってからは、優に妙なお容姿に深く思いを寄られて、子爵の御名望にも代られぬ御執心と見えて、行つ戻りつして躊躇っていらっしゃるうちに遂々奥方にと御所望なさった・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・眼が鈍い、頭が悪い、心臓が狭い、腕がカジカンでいる、どの性質にも才能にも優れたものはない、――しかも私は何事をか人類のためになし得る事を深く固く信じています。もう二十年! そう思うとぐッたりしていた体に力がみなぎって来る事もあります。 ・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・父が患者に対して愛嬌をふりまくとか、患者を心服せしめるためにホラを吹くとか、そういう類の外交術をやっている場面はかつて見たことがないが、病気と聞いて即座に飛び出して行かない場合もかつてなかったと思う。田舎のことであるから、こういう生活はかな・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫