・・・「この上はもうぶん擲ってでも、白状させるほかはないのですが、――」 参謀がこう云いかけた時、将軍は地図を持った手に、床の上にある支那靴を指した。「あの靴を壊して見給え。」 靴は見る見る底をまくられた。するとそこに縫いこまれた・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・……亡きあとでも、その常用だった粗末な手ぶんこの中に、なおざりにちょっと半紙に包んで、といけぞんざいに書いたものを開けると、水晶の浄土珠数一聯、とって十九のまだ嫁入前の娘に、と傍で思ったのは大違い、粒の揃った百幾顆の、皆真珠であった。 ・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・「背中を一つ、ぶん撲って進じようか。」「ばば茸持って、おお穢や。」「それを食べたら、肥料桶が、早桶になって即死じゃぞの、ぺッぺッぺッ。」 私は茫然とした。 浪路は、と見ると、悄然と身をすぼめて首垂るる。 ああ、きみた・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・「おっちゃんあっこ、おっちゃんあっこ、はんぶんはんぶん」 といいつついきなり父に取りつく。奈々子が菓子ほしい時に、父は必ずだっこしろ、だっこすれば菓子やるというために、菓子のほしい時彼はあっこあっこと叫んで父の膝に乗るのである。一つ・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・このぶんでは道もわかりますまい。今夜は、この小屋の中に泊まっておいでなさいませんか。」と、息子はいいました。 たばこを喫いながら、火のそばに、うずくまっていたおじいさんは、頭を振りながら、「俺は、やりかけてきた仕事がたくさんあるのだ・・・ 小川未明 「おおかみをだましたおじいさん」
・・・このぶんなら、夜じゅう歩いてもだいじょうぶだというような元気が起こった。 私は、なにかみやげにする魚はないかというと、その中の一人の男が、このかにを出してくれた。 銭を払おうといっても手を振って、その男はどうしても金を受け取らなかっ・・・ 小川未明 「大きなかに」
・・・「いまじぶん、だれが あそんで いるものか。」 しばらく すると、また、「リンリン リン。」と、いう 音が、かすかに きこえました。「ほら。」「ほんとうだわ。」 おかあさんと 三人が とを あけて、そとを ながめました。・・・ 小川未明 「こがらしの ふく ばん」
・・・けれど、隣室の人たちはたぶん雨戸をあけるのを好まないだろう。 すっかり心が重くなってしまった。 夕暮近く湯殿へ行った。うまい工合に誰もいなかった。小柄で、痩せて、貧弱な裸を誰にも見られずに済んだと、うれしかった。湯槽に浸ると、びっく・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ひとに儲けさせるのはうまいが、自身で儲けるぶんにはからきし駄目で、敢えて悪銭とはいわぬが、身につかなかったわけだ。 一方お前は、おれに見はなされたのが運のつきだったか、世間もだんだんに相手にしなくなり、薬も売れなくなった。もっとも肺病薬・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・と女主人は言って、急に声をひそめて、「処が可哀そうに余り面白く行かないとか大ぶん紛糾があるようで御座います。お正さんは二十四でも未だ若い盛で御座いますが、旦那は五十幾歳とかで、二度目だそうで御座いますから無理も御座いませんよ。」 大友は・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
出典:青空文庫