・・・夜なかに咳が出て閉口した。 翌朝眼がさめると、白い川の眺めがいきなり眼の前に展けていた。いつの間にか雨戸は明けはなたれていて、部屋のなかが急に軽い。山の朝の空気だ。それをがつがつと齧ると、ほんとうに胸が清々した。ほっとしたが、同時に夜が・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・何しろ運わるく妻が郷里に病人が出来て帰って居る、……そんなこんなでね、余り閉口してるもんだからね。……」「……そう、それが、君の方では、それ程大したことではないと思ってるか知らんがね、何にしてもそれは無理をしても先方の要求通り越しちまう・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・それは月光が平行光線であるため、砂に写った影が、自分の形と等しいということがあるが、しかしそんなことはわかり切った話だ。その影も短いのがいい。一尺二尺くらいのがいいと思う。そして静止している方が精神が統一されていいが、影は少し揺れ動く方がい・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。 ――おまえは腋の下を拭いているね。冷汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉・・・ 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
・・・彼は閉口してしまった。 印度人は席へ下りて立会人を物色している。一人の男が腕をつかまれたまま、危う気な羞笑をしていた。その男はとうとう舞台へ連れてゆかれた。 髪の毛を前へおろして、糊の寝た浴衣を着、暑いのに黒足袋を穿いていた。にこに・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・その間に自分の生活はまるで気力の抜けた平衡を失したものに変わっていた。先ほども言ったように失敗が既にどこか病気染みたところを持っていた。書く気持がぐらついて来たのがその最初で、そうこうするうちに頭に浮かぶことがそれを書きつけようとする瞬間に・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・そして今もし突如この平衡を破るものが現われたら自分はどうなるかしれないということを思っていた。だから吉田の頭には地震とか火事とか一生に一度遭うか二度遭うかというようなものまでが真剣に写っているのだった。また吉田がこの状態を続けてゆくというの・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・するとその女はまたこんなことを言って吉田を閉口させてしまうのだった。「それは今ここで教えてもこの病院ではできまへんで」 そしてそんな物々しい駄目をおしながらその女の話した薬というのは、素焼の土瓶へ鼠の仔を捕って来て入れてそれを黒焼き・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ 馬鈴薯も全きり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじゃア全く閉口する!」 と言って、上村はやや満足したらしく岡本の顔を見た。「だって北海道は馬鈴薯が名物だって言うじゃアありませんか」と岡本は平気で訊ねた。「その馬鈴薯なんです、僕はそ・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・まだ炎熱いので甲乙は閉口しながら渓流に沿うた道を上流の方へのぼると、右側の箱根細工を売る店先に一人の男が往来を背にして腰をかけ、品物を手にして店の女主人の談話しているのを見た。見て行き過ぎると、甲が、「今あの店にいたのは大友君じゃアなか・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
出典:青空文庫