・・・いったい自分は法科などへはいってこんな俗吏になろうと云うような考えは毛頭なかった。中学校に居た頃、先では何になる積りかなどとよく人に聞かれた事はあったが、何になる積りだか、そんな事はまだ考えていなかった。もし考えたら何もなるものが無くて困っ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・尤も電波とは云ってもそれは今のラジオのような波長の長い電波ではなくて、ずっと波長の短い光波を使った烽火の一種であるからそれだけならばあえて珍しくない、と云えば云われるかもしれないが、しかしその通信の方法は全く掛け値なしに巧妙なものといわなけ・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・これは言わば細胞組織の百貨店であって、後年のデパートメントストアの予想であり胚芽のようなものであったが、結局はやはり小売り商の集団的蜂窩あるいは珊瑚礁のようなものであったから、今日のような対小売り商の問題は起こらなくても済んだであろう。とに・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・映画や小説の芸術に酔うて盗賊や放火をする少年もあれば、外来哲学思想に酩酊して世を騒がせ生命を捨てるものも少なくない。宗教類似の信仰に夢中になって家族を泣かせるおやじもあれば、あるいは干戈を動かして悔いない王者もあったようである。 芸術で・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○人の放火者が徘徊するから注意しろと云ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。こんな場末の町へまでも荒して歩くためには一体何千キ・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・きょうから隣の空室へ判事試補マイヤー君が宿をとりました。法科のベルナー君や理科のデフレッガア君などは目下郷里へ帰ってたいへん静かであります。 長々と書いたもののいっこうつまらなくなりました。 パリから 私の宿・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・二十くらいもあろうかと思う六角の蜂窩の一つの管に継ぎ足しをしている最中であった。六稜柱形の壁の端を顎でくわえて、ぐるぐる廻って行くと、壁は二ミリメートルくらい長く延びて行った。その新たに延びた部分だけが際立って生々しく見え、上の方の煤けた色・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・こうした上昇流は決して一様に起こることは不可能で、類似の場合の実験の結果から推すと、蜂窩状あるいはむしろ腸詰め状対流渦の境界線に沿うて起こると考えられる。それで鳥はこの線上に沿うて滑翔していればきわめて楽に浮遊していられる。そうしてはなはだ・・・ 寺田寅彦 「とんびと油揚」
・・・由井正雪の残党が放火したのだという流言が行なわれたのももっともな次第である。明和九年の行人坂の火事には南西風に乗じて江戸を縦に焼き抜くために最好適地と考えられる目黒の一地点に乞食坊主の真秀が放火したのである。しかし、それはもちろんだれが計画・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・ 一日ミロにおける住宅で友人達と会合しあっていたとき誰かがその家に放火した。それは仲間に入れてもらえなかった人の怨恨によるともいわれ、またクロトンの市民等がピタゴラス一派の権勢があまり強すぎて暴君化することを恐れたためともいわれている。・・・ 寺田寅彦 「ピタゴラスと豆」
出典:青空文庫