・・・ 世に在る人々に取っては、是れ程忌わしく恐ろしい言葉はあるまい、いくら新聞では見、物の本では読んで居ても、まさかに自分が此忌わしい言葉と、眼前直接の交渉を生じようと予想した者は一個もあるまい、而も私は真実に此死刑に処せられんとして居るのであ・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・どこまでも忠実に付従して来るはいいとしても、まさかに手洗い所までものそのそついて来られては迷惑を感じるに相違ない。 ニュートンの光学が波動説の普及を妨げたとか、ラプラスの権威が熱の機械論の発達に邪魔になったとかという事はよく耳にする事で・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・書籍の場合はまさかにそれほどではないとしても、大多数の読書界の各員が最高の批判能力をもっていない限り、やはり評判の高いほうを選む。そうして評判は広告と宣伝によって高まるとすれば、書籍の生産者が売薬化粧品商と同一の手段を選ぶのは当然のことであ・・・ 寺田寅彦 「読書の今昔」
・・・一度ぐらいは、このなんの理由もなしに定めた順序を変え、あるいは逆にしてもよさそうなものであるが、実際にはそのような試みをした事はない。まさかに、右ききの人間は右回りの傾向があるとかいうわけでもあるまいし、体操の時に「回れ右」をするが「回れ左・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・そんなに薄情な人とは、私しゃ今まで知らなかッたよ。まさかに手拭紙にもされないからとは、あんまり薄情過ぎるじゃないかね。平田さんをそんなに忘れておしまいでは、あんまり義理が悪るかろうよ」「だッて、もう逢えないと定まッてる人のことを思ッたッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・それでもおれは命が惜しくて生きているのではない、おれをどれほど悪く思う人でも、命を惜しむ男だとはまさかに言うことが出来まい、たった今でも死んでよいのなら死んでみせると思うので、昂然と項をそらして詰所へ出て、昂然と項をそらして詰所から引いてい・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫