誰よりも一番親孝行で、一番おとなしくて、何時でも学校のよく出来た健吉がこの世の中で一番恐ろしいことをやったという――だが、どうしても母親には納得がいかなかった。見廻りの途中、時々寄っては話し込んで行く赫ら顔の人の好い駐在所・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・原に見た帰り途飯だけの突合いととある二階へ連れ込まれたがそもそもの端緒一向だね一ツ献じようとさされたる猪口をイエどうも私はと一言を三言に分けて迷惑ゆえの辞退を、酒席の憲法恥をかかすべからずと強いられてやっと受ける手頭のわけもなく顫え半ば吸物・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・殿「何だかそれじゃア分らん、迎いをやっても来てくれんから恨んでいた。今日は宜く出て来たの」七「へえ」殿「続いて寒いから雪催しで有るの」七「へえ」殿「何だえ……御覧なさい、あの通りで……これ誰か七兵衞に浪々酌をしてやれ、膳・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・十銭呉れてやった上に、助言もしてやった。まあ、二つ恵んでやった。と考えて、自分のしたことを二倍にして喜んだ。五月――寂しい旅情は僅かに斯ういうことで慰められたのである。 しばらくして、水汲みから帰って来た下女に聞くと、その男は自分の家を・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・全くのその日暮し、その時勝負でやっているのだろうか。あながちそうでもないようである。事実、自分の日常生活を支配しているものは、やっぱり陳い陳い普通道徳にほかならない。自分の過去現在の行為を振りかえって見ると、一歩もその外に出てはいない。それ・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・男等の位置と白楊の位置とが変るので、その男等が歩いているという事がやっと知れるのである。七人とも上着の扣鈕をみな掛けて、襟を立てて、両手をずぼんの隠しに入れている。話声もしない。笑声もしない。青い目で空を仰ぐような事もない。鈍い、悲しげな、・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・かけ出した人も、やがて往来が人一ぱいで動きがとれなくなり、仕方なしに荷をほうり出す、むりにせおってつきぬけようとした人も、その背中の荷物へ火の子がとんでもえついたりするので、つまりは同じく空手のまま、やっとくぐりぬけて来たというのが大方です・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・彼の両親は、長い間散々種々やって見た揚句、到頭、彼もいつかは一人前の男に成るだろうと云う希望を、すっかり棄てて仕舞いました。一体、のらくら者と云うものは、家の者からこそ嫌がられますけれども、他処の人々は、誰にでも大抵気に入られると云う得を持・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・長女は、かれのぶっとふくれた不気嫌の顔を見かねて、ひとりでは大人になった気でいても、誰も大人と見ぬぞかなしき、という和歌を一首つくって末弟に与え、かれの在野遺賢の無聊をなぐさめてやった。顔が熊の子のようで、愛くるしいので、きょうだいたちが、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ 「まだやってるんだろう。煙台で聞いたが、敵は遼陽の一里手前で一支えしているそうだ。なんでも首山堡とか言った」 「後備がたくさん行くナ」 「兵が足りんのだ。敵の防禦陣地はすばらしいものだそうだ」 「大きな戦争になりそうだナ」・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫