・・・それ故いまふとそんな気になったことに佐伯はびっくりし、またその方角へひとりでに歩きだした自分を見ると、おやいつものおれとは違うぞという奇妙な驚きに、わくわくしてしまった。 つまりはよしやろうだなと呟き呟き行くと、その道には銭湯があり八百・・・ 織田作之助 「道」
・・・ 嘉七は、脚がだるく、胸だけ不快にわくわくして、薬を飲むような気持でウイスキイを口のみした。 金があれば、なにも、この女を死なせなくてもいいのだ。相手の、あの男が、もすこしはっきりした男だったら、これはまた別な形も執れるのだ。見ちゃ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ 生家の玄関にはいる時には、私の胸は、さすがにわくわくした。中はひっそりしている。お寺の納所のような感じがした。部屋部屋が意外にも清潔に磨かれていた。もっと古ぼけていた筈なのに、小ぢんまりしている感じさえあった。悪い感じではなかった。・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・そうして例外なく緊張にわくわくしている。可哀想だ。無智だ。親爺と喧嘩して飛び出して来たのだろう。ばかめ。 私は、ひとりの青年に目をつけた。映画で覚えたのか煙草の吸いかたが、なかなか気取っている。外国の役者の真似にちがいない。小型のトラン・・・ 太宰治 「座興に非ず」
・・・ 私は恐ろしく、からだが、わくわく震えた。落ちつきを見せるために、机に頬杖をつき、笑いを無理に浮べて、「いいえ、ね、その庭の隅に、薔薇が植えられて在るでしょう! それが、だまされて買ったんです。」「私と、どんな関係があるんですか・・・ 太宰治 「市井喧争」
・・・何せどうも、気が弱くてだらしない癖に、相当虚栄心も強くて、ひとにおだてられるとわくわくして何をやり出すかわかったもんじゃない男なのだから。 私はそのような成行きに対して、極度におびえていた。私がもしサロン的なお上品の家庭生活を獲得したな・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・五、六日まえ、僕のところへ来て、そんなことを言いますから、僕もわくわくして、どんな人か、と聞きましたら、ただ宿へ郵便を投げこむだけなのだから、顔は見たことがない、と言います。それなら、こんどは様子を、それとなく内偵してみてくれ、もし人ちがい・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・胸をわくわくさせて念じた。薔薇は、どうやら枯れずに育った。 私は、朝、昼、晩、みれんがましく、縁側に立って垣根の向うの畑地を眺める。あの、中年の女のひとが、贋物でなくて、ひょっこり畑に出て来たら、どんなに嬉しいだろう、と思う。「ごめんな・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・勇吉はわくわく震えた。 田山花袋 「トコヨゴヨミ」
・・・ 小万も何とも言い得ないで、西宮の後にうつむいている吉里を見ると、胸がわくわくして来て、涙を溢さずにはいられなかッた。 お梅が帽子と外套を持ッて来た時、階下から上ッて来た不寝番の仲どんが、催促がましく人車の久しく待ッていることを告げ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫