・・・アテナ・インクの瓶がそのまんま置いてあって、そこへペン先をもって行っては書いているのだが、そのペン軸を従妹がくれたのは、もう何年前のことだったろう。私が悄気て鎌倉にいた従妹の家へふらりと行ったりした頃、貰ったものだ。 やきものの山羊は父・・・ 宮本百合子 「机の上のもの」
・・・それからインクスタンドの下の方にゴトゴトになってたまって居るのでペンが重くってしようがないんで、気がついたらもう一寸もいやになったんでまだ一寸あったのをすててしまってきれいに水であらって、丸善のあの大きな□□(のびんから小分をしてペンをひた・・・ 宮本百合子 「日記」
・・・と大書されたわきに、それぞれ赤インクで線がひいてある。二三日前の雨のせいで、赤インクは侘しく流れ滲んでいるのであるが、この自宅英語塾主は、それ程の積極性をこの広告の効果に認めていないと見え、よごれた特別広告はそのまま、錆のふいた門の鉄扉の外・・・ 宮本百合子 「日本の秋色」
・・・私はそれに赤や紺や紫や、買い集められただけの色インクで、びっしりと書取りをして行った。大判の頁、一枚ときめ、椽側で日向ぼっこをしながらちょうど時候にすればいま時分、とつとつと書きつめるのである。 一枚、一枚を使うインクの色をちがえ、バラ・・・ 宮本百合子 「入学試験前後」
・・・もし坂口安吾氏がいうように、ぎりぎりの人間的存在が性的交渉の中にだけ実感されるならば、何故坂口氏自身、こんなにたくさんの紙とインクを使って、それを小説として表現しなければならないのだろうか。この質問は、単純だけれど深い意味を持っている。何故・・・ 宮本百合子 「人間の結婚」
・・・ インクで書かれたそれらの字は歳月を経てもう今日ではぼんやりとした茶色に変っている。明治二十五年六月から二十六年三月号までが一冊にされているのだけれど、その頃は極めて新しく清潔なモラルの源であったこの雑誌を、こんな丁寧に扱って真面目に読・・・ 宮本百合子 「本棚」
・・・しばらく立って詩人は私は書かなくてはなりませんからと云って桃色の燈火の美くしい部屋に入って鵝ペンにインクをふくませました。目は上を見て手は生き物のようにみどりのラシャの上によこたわっています。そのやわらかい胸の中には何かうかびました。白い紙・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
・・・ インクの色もその人の年によってすきな都合が違うと云うことをこの頃になって知った。 ようやくインクをつかいはじめた年頃から私達より一寸大きいころまでははっきりとしたブリューなんかがすきで、二十ぐらいになるともうじみな、書いたあと・・・ 宮本百合子 「芽生」
・・・時は、明方に薄曇のしていた空がすっかり晴れて、日光が色々に邪魔をする物のある秀麿の室を、物見高い心から、依怙地に覗こうとするように、窓帷のへりや書棚のふちを彩って、卓の上に幅の広い、明るい帯をなして、インク壺を光らせたり、床に敷いてある絨氈・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・卓の上のインク壺の背後には、例の大きい黒猫が蹲って眠っている。エルリングが肩の上には、例の烏が止まって今己が出し抜けに来た詫を云うのを、真面目な顔附で聞いていたが、エルリングが座を起ったので、鳥は部屋の隅へ飛んで行った。 エルリングは椅・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫