・・・それからあのいつもの漆喰細工の大玄関をはいってそこにフロックコートに襟章でも付けた文部省の人々の顔に逢着するとまた一種の官庁気分といったようなものも呼び出される。尤もこんな事は美術とは何の関係もない事ではあるが、それでも感受性の鋭い型の観覧・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・また向うからただ一人、洋紅色のコートを着た若い令嬢が俯向いたまま白いショールで口を蔽うて、ゆっくりゆっくり歩いて来る。血色のいい頬、その頬が涙で洗われている。 正月の休みで、外には誰も通る人がない。旧解剖学教室、生理学教室の廃墟には冬枯・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・浅草という土地がら、大道具という職業がらには似もつかず、物事が手荒でなく、口のききようも至極穏かであったので、舞台の仕事がすんで、黒い仕事着を渋い好みの着物に着かえ、夏は鼠色の半コート、冬は角袖茶色のコートを襲ねたりすると、実直な商人としか・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・白い雨外套を着た職工風の男が一人、絣りの着流しに八字髭を生しながらその顔立はいかにも田舎臭い四十年配の男が一人、妾風の大丸髷に寄席芸人とも見える角袖コートの男が一人。医者とも見える眼鏡の紳士が一人。汚れた襟付の袷に半纏を重ねた遣手婆のような・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・もせぬ俳句を考えたりする中、先へ行く女の姿は早くも夕闇の中にかくれてしまったが、やがて稲荷前の電車停留場へ来ると、その女は電柱の下のベンチに腰をかけ、電燈の光をたよりに懐中鏡を出して化粧を直している。コートは着ていないので、一目に見分けられ・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・しかし若い男や女が、二重廻やコートや手袋襟巻に身を粧うことは、まだ許されていない時代である。貧家に育てられたらしい娘は、わたくしよりも悪い天気や時侯には馴れていて、手早く裾をまくり上げ足駄を片手に足袋はだしになった。傘は一本さすのも二本さす・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・高原君は御覧の通りフロックコートを着ておりましたが、私はこの通り背広で御免蒙るような訳で、御話の面白さもまたこの服装の相違くらい懸隔しているかも知れませんから、まずその辺のところと思って辛抱してお聴きを願います。高原君はしきりに聴衆諸君に向・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・こうやって演壇に立って、フロックコートも着ず、妙な神戸辺の商館の手代が着るような背広などを着てひょこひょこしていては安っぽくていけない。ウンあんな奴かという気が起るにきまっている。が駕籠の時代ならそうまで器量を下げずにすんだかも知れない。交・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・そこにはそれ相当な因縁、すなわち先刻申上げた大村君の鄭重なる御依頼とか、私の安受合とか、受合ったあとの義務心とか、いろいろの因縁が和合したその結果かくのごとくフロックコートを着て参りました。この関係を因果の法則と称えております。 すると・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・牛肉配達などが日曜になるとシルクハットでフロックコートなどを着て澄している。しかし一般に人気が善い。我輩などを捕えて悪口をついたり罵ったりするものは一人もおらん。ふり向いても見ない。当地では万事鷹揚に平気にしているのが紳士の資格の一つとなっ・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
出典:青空文庫