・・・ 清洲橋をわたった南側には、浅野セメントの製造場が依然として震災の後もむかしに変らず、かの恐しい建物と煙突とを聳かしているが、これとは反対の方向に歩みを運ぶと、窓のない平い倉庫の立ちつづく間に、一条の小道が曲り込んでいて、洋服に草履をは・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・むかし待乳山の岡の下には一条の細い町があって両側に並んでいる店付の質素な商店の中には、今戸焼の陶器や川魚の佃煮を売る店があって、この辺一帯の町を如何にも名所らしく思わせていたが、今はセメントで固めた広い道路となってトラックが砂烟を立てて走っ・・・ 永井荷風 「水のながれ」
・・・吾人は日比谷青山辺に見るが如き鉄鎖とセメントの新公園をここにもまた見るに至るのであろう。三囲の堤に架せられべき鉄橋の工事も去年あたりから、大に進捗したようである。世の噂をきくに、隅田川の沿岸は向島のみならず浅草花川戸の岸もやがて公園になされ・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・橋向には広漠たる空地がひろがっていて、セメントのまだ生々しい一条の新開道路が、真直に走っていたが、行手には雲の影より外に目に入るものはない。わたくしはその日地図を持って来なかったので、この新道路はどこへ出るものやら更に見当がつかなかったので・・・ 永井荷風 「元八まん」
松戸与三はセメントあけをやっていた。外の部分は大して目立たなかったけれど、頭の毛と、鼻の下は、セメントで灰色に蔽われていた。彼は鼻の穴に指を突っ込んで、鉄筋コンクリートのように、鼻毛をしゃちこばらせている、コンクリートを除・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・ 錆のとれた後は、一人の水夫が、コールターと、セメントの混ぜ合せたのを塗って歩いた。 だが、何のために、デッキに手入れをするか? デッキに手入れをするか? よりも、第三金時丸に最も大切なことは、そのサイドを修理することではなかっ・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・けれども塀はセメントで、中には鉄も入っているから、なかなか象もこわせない。塀の中にはオツベルが、たった一人で叫んでいる。百姓どもは眼もくらみ、そこらをうろうろするだけだ。そのうち外の象どもは、仲間のからだを台にして、いよいよ塀を越しかかる。・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・おじいさんがそれをとめ、嘉ッコがすばやく逃げかかったとき、俄に途方もない、空の青セメントが一ぺんに落ちたというようなガタアッという音がして家はぐらぐらっとゆれ、みんなはぼかっとして呆れてしまいました。猫は嘉ッコの手から滑り落ちて、ぶるるっと・・・ 宮沢賢治 「十月の末」
・・・グラトコフは「セメント」を書いた。ヤーコヴレフは「十月」を。イワノフは「装甲列車」を。リベディンスキーは「一週間」を。ピリニャークは代表的な「裸の年」を書いたのである。 各作家めいめいが、めいめいの傾向のままにそれ等を書いたのであったが・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・飛び石で小さいセメントの池から木戸まで、又は沈丁花の傍らまで人工的につながれた庭。通俗的な日本式庭園の型をまねて更に一層貧弱な結果を示したに過ぎない。 私は、庭が、せめてありのままの自然の一部を区切って僅の修正を施した程度のものであ・・・ 宮本百合子 「素朴な庭」
出典:青空文庫