・・・黒茶にレモン一片入れて飲め無えじゃ、人間って名は附けられ無えかも知れ無えや。 昨夕もよ、空腹を抱えて対岸のアレシキに行って見るとダビドカの野郎に遇った。懐をあたるとあるから貸せと云ったら渋ってけっかる。いまいましい、腕づくでもぎ取ってく・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・うなだれつつ街をよぎれば、家々の門口より、ほの白き乙女の影、走り寄りて桃金嬢の冠を捧ぐとか、真なるもの、美なるもの、兀鷹の怒、鳩の愛、四季を通じて五月の風、夕立ち、はれては青葉したたり、いずかたよりぞレモンの香、やさしき人のみ住むという、太・・・ 太宰治 「喝采」
・・・細くしたためて、私と、それからもう一人、道づれの、その、同行の相手は、姿見えぬ人、うなだれつつ、わが背後にしずかにつきしたがえるもの、水の精、嫋々の影、唇赤き少年か、鼠いろの明石着たる四十のマダムか、レモン石鹸にて全身の油を洗い流して清浄の・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ 大正年間の大噴火に押し出した泥流を被らなかったと思われる部分の山腹は一面にレモン黄色と温かい黒土色との複雑なニュアンスをもって彩られた草原に白く曝された枯木の幹が疎らに点在している。そうして所々に露出した山骨は青みがかった真珠のような・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・何というものかと聞くと、レモン油というものだと教えられた。今のレモン・エッセンスであったのである。明治十七、八年頃の片田舎の裁判所の書記生にしては実に驚くべきハイカラであったに相違ないのである。ゲーテのライネケフックスの訳本を読んで聞かせて・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・それは黒い背筋の上に薄いレモン色の房々とした毛束を四つも着け、その両脇に走る美しい橙紅色の線が頭の端では燃えるような朱の色をして、そこから真黒な長い毛が突き出している。これが薔薇のみならず、萩にもどうだんにも芙蓉にも夥しくついている。これは・・・ 寺田寅彦 「蜂が団子をこしらえる話」
・・・その果物のうちでもっとも香りの高い遠い国から来たレモンの露を搾って水に滴らして飲んだ。珈琲も飲んだ。すべての飲料のうちで珈琲が一番旨いという先生の嗜好も聞いた。それから静かな夜の中に安倍君と二人で出た。 先生の顔が花やかな演奏会に見えな・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・一日、ホット・レモンを飲んで床についたが、無惨に高い天井を眺めているうちに思ったことがある。それは、雑誌のことで、雑誌も、正月の『婦人公論』についてである。 初め、女流百人百題という題を見、ジャアナリズムを感じただけであった。順ぐり読む・・・ 宮本百合子 「是は現実的な感想」
・・・コップでレモンの輪が黄いろい。 この演出に、我々はクニッペルやスタニスラフスキー、カチャロフその他昔から深い繋りを作品と持っていた俳優が出演するだろうと思っていた。ところが、クニッペルは出なかった。スタニスラフスキーも出なかった。他の誰・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
・・・「夕」三谷十糸子、「娘たち」森田沙夷などは、それぞれに愛すべき生活のディテールをとらえて、画に生活の感情をふき込もうとしているに対して煩悶のない有馬氏の「後庭」はじめ「温室」「レモンと花」「静物」等、殆どすべてがアトリエ中心であり、自足して・・・ 宮本百合子 「帝展を観ての感想」
出典:青空文庫