・・・幾春秋、忘れず胸にひめていた典雅な少女と、いまこそ晴れて逢いに行くのに、最もふさわしいロマンチックな姿であると思っていた。私は上衣のボタンをわざと一つむしり取った。恋に窶れて、少し荒んだ陰影を、おのが姿に与えたかった。 Aという、その海・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
・・・ その不審には、簡単ではあるが頗るロマンチックな解答を与え得るのである。それは、彼女の親たちの日本橋に対する幻影に由来している。ニホンでいちばんにぎやかな良い橋はニホンバシにちがいない、という彼等のおだやかな判断に他ならぬ。 女の子・・・ 太宰治 「葉」
・・・ちっともロマンチックではないんだもの。普通の家庭に落ち附いて、そうして薄汚い身なりの、前歯の欠けた娘を、冷く軽蔑して見送りもせず、永遠に他人の顔をして澄ましていようというんだから、すさまじいや。あんなの、インチキというんじゃないかしら。・・・ 太宰治 「恥」
・・・いまのあの一瞬で、私は完全に、ロマンチックから追放だ。実に、おそろしい一瞬である。見られた。ひともあろうに、ゆきさんに見られた。笠井さんは、醜怪な、奇妙な表情を浮べて、内心、動乱の火の玉を懐いたまま、ものもわからず勘定をすまし、お茶代を五円・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・この世に、ロマンチックは、無い。私ひとりが、変質者だ。そうして、私も、いまは営々と、小市民生活を修養し、けちな世渡りをはじめている。いやだ。私ひとりでもよい。もういちど、あの野望と献身の、ロマンスの地獄に飛び込んで、くたばりたい! できない・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ここへ来て、もう四年にもなるので、家族のロマンチックの気風にすっかり同化している。令嬢たちから婦人雑誌を借りて、仕事のひまひまに読んでいる。昔の仇討ち物語を、最も興奮して読んでいる。女は操が第一、という言葉も、たまらなく好きである。命をかけ・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・『明星』にあこがれた青年、なかばロマンチックで、ファンタスチックで、そしてまだ新しい思潮には到達しない青年の群れ――その群れを描くことについては、私にとって非常な困難があった。中学時代のかれの初恋、つづいて起こった恋愛事件、それがのみ込めな・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・それが云わば敵国の英国の学者の日蝕観測の結果からある程度まで確かめられたので、事柄は世人の眼に一種のロマンチックな色彩を帯びるようになって来た。そして人々はあたかも急に天から異人が降って来たかのように驚異の眼を彼の身辺に集注した。 彼の・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・この夜の顛末の物語はなんとなくアラビアンナイトを思い出させるような神秘的なロマンチックな詩に満ちたものであったが、惜しいことに細かいことを忘れてしまった。「それから船便を求めてあてのない極東の旅を思い立ったが、乗り組んだ船の中にはもうち・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・ そこで私は明治以前の道徳をロマンチックの道徳と呼び明治以後の道徳をナチュラリスチックの道徳と名づけますが、さて吾々が眼前にこの二大区別を控えて向後我邦の道徳はどんな傾向を帯びて発展するだろうかの問題に移るならば私は下のごとくあえて云い・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
出典:青空文庫