・・・この知人と云うのも、その日暮しの貧乏人なのでございますが、絹の一疋もやったからでございましょう、湯を沸かすやら、粥を煮るやら、いろいろ経営してくれたそうでございます。そこで、娘も漸く、ほっと一息つく事が出来ました。」「私も、やっと安心し・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・ しかも、こっちを、銑吉の方を向いて、髯をぴちぴちと動かす。一疋七八分にして、躯は寸に足りない。けれども、羽に碧緑の艶濃く、赤と黄の斑を飾って、腹に光のある虫だから、留った土が砥になって、磨いたように燦然とする。葛上亭長、芫青、地胆、三・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ たった今や、それまでというものは、四人八ツの、団栗目に、糠虫一疋入らなんだに、かけた縄さ下から潜って石から湧いて出たはどうしたもんだね。やあやあ、しっしっ、吹くやら、払いますやら、静として赤蜻蛉が動かねえとなると、はい、時代違いで、何・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・独りで桑圃のある方へ歩いて来ると、おはぐろ蜻蛉が、一疋頭の上を舞っている。私は、このおはぐろ蜻蛉は、どんな気持で、此の烈しい日光の中を飛んでいるかと思って、暫らく立止って眺めていると、極めて落付いて安心して、自分の考えるまゝに自分は自由に平・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・ 一疋の親の海豹が、氷山のいただきにうずくまって、ぼんやりとあたりを見まわしていました。その海豹は、やさしい心を持った海豹でありました。秋のはじめに、どこへか姿の見えなくなった自分のいとしい子供のことを忘れずに、こうして、毎日あたりを見・・・ 小川未明 「月と海豹」
・・・そして馬を一疋飼おうじゃないか。……お前は馬に乗れるかい?」「乗れますとも! 僕は家で最中困った時には、馬を買って駄賃までつけたんですからね」 惣治は今に始まらぬ兄の言うことのばかばかしさに腹が立つよりも、いつになったらその創作とい・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・と言いながら一疋の鹿を、角をつかんで部屋の隅から引きずり出して来ました。鹿の頸には銅の頸輪がはまっていて、それに鉄の太い鎖がつながれていました。「こいつも、しっかり鎖でつないで置かないと、あたし達のところから逃げ出してしまうのだよ。どうして・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・群を離れた犬が一疋汀へ飛んで来て草の間を嗅いでいたが、笛の音が響くと弾かれたように駆け出して群の後を追う。 猟の群が通り過ぎると、ひっそりする。沼の面が鏡のように静まる。 いずこともなくニンフとパンの群が出て来る。眩しいような真昼の・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・霧が晴れかかった時に、線路の横の畑の中に一疋の駄馬がしょんぼり立っているのが見えた。その馬のからだ一面から真白な蒸気が仰山に立ち昇っていた。並んで坐っていた連れの男は「コロッサアル、コロッサアル」と呟いていた。私は何となしに笑いたくなって声・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・真中の芝生に鶴が一羽歩いているのを小さな黒犬が一疋吠えついていた。 最も呑気そうに見えるべきはずのこれらの人達が今日の私の眼には妙にものものしい行列のように見えた。大劇場のプロムナードを練り歩く人の群のような気がした。そして世の中に「閑・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫